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<京屋敷めぐり・伏見区>

 

尾張徳川屋敷<所在地 伏見板橋小学校、伏見中学校付近>

  藩祖徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えてきた勤皇家。このこと及び、将軍を輩出できなかったこと、将軍家から 11代から14代まで養子を押し付けられ続けた(家斉の子供以外にも家斉実家の一橋系から養子に入っている)ことなどにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。

薩摩島津屋敷<所在地 松山酒造、玉乃光酒造、東堺町付近>

 薩摩藩の藩邸は江戸、京都、大坂、長崎、伏見の5カ所あった。伏見の藩邸は、他の藩邸と異なり、「御仮屋」といわれ、主に藩主の参勤交代のときの宿舎として使われた。江戸時代、大名が洛中に宿泊することは禁じられており、参勤交代の行列も西国大名の場合は洛中を避けて伏見から大岩街道を経由していた。薩摩藩の場合、洛中に藩邸があったが、藩主は伏見屋敷から洛中に入り、日帰りで伏見に帰ってくるのがならわしだった。

 肥後細川屋敷<所在地 土橋町付近>

 幕末には藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれた。実学党の中心は横井小楠である。彼は藩政改革に携わったが失脚。安政5年(1858年)福井藩主松平慶永の誘いにより政治顧問として福井藩に移った。文久2年(1862年)江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ一人逃亡したという罪で翌年、熊本藩士の籍を剥奪された。また、勤王党の中心人物宮部鼎蔵も元治元年(1864年)池田屋事件により死去。これにより時習館党が主流となったが藩論は不統一のままだった。

 因幡池田屋敷<所在地 土橋町付近>

 幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久 3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年( 1868年)の鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方についた。

 土佐山内屋敷<所在地 月桂冠情報センター、伏見区南浜町付近>

幕末期に藩主山内容堂(1827〜72)は公武合体を目指したが,のちに勤王党が台頭した。文久3(1863)年8月18日の政変以後は尊王攘夷を弾圧したが,坂本龍馬(1836〜67)等の尽力で薩長同盟が成立し,後藤象二郎(1838〜97)の進言を入れて大政奉還を建白するに至った。  

 

 紀州徳川屋敷<所在地 月桂冠昭和蔵、片原町付近>

 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発した際、14代藩主茂承は病に倒れていたが、徳川御三家の一つである上、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府の討伐を受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵 1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼までもを担ったのである。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。

 安芸浅野屋敷<所在地 北川本家、村上町付近>

  長州征伐で広島は最前線基地となり、戦争景気となったが、長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。慶応 2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上、幕府の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第 15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を推進するなどしている。このため、広島藩は明治政府の中枢から排除されることにはなったが、明治政府軍に加わって戊辰戦争を戦った。

長州毛利屋敷<所在地 伏見土木事務所付近>

1600(慶長5)年関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍参謀として参戦し敗戦。徳川政権になって毛利家は一時干されていたが、江戸中期の1699(元禄12)年頃にはこの付近、中書島の新開地の工事を任されたことから、この時期に藩邸をこの付近に移したとされている。幕末、1864(元治1)7月19日未明、この伏見長州藩邸から長州藩家老福原越後らが御所に向けて挙兵、「禁門の変」が勃発する。その途中、伏見街道の稲荷付近で対峙する大垣、会津、桑名、鯖江の幕府側藩兵と戦闘、劣勢敗走して伏見藩邸に退却。一方、幕府側彦根藩他が京橋から伏見長州藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸はこの時焼け落ちたとなっているが、その後の再建はない。