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  <京屋敷めぐり・上京区>

   薩摩島津屋敷<所在地 同志社大学西門、烏丸今出川付近>

 薩摩藩邸は,錦小路通東洞院にある本邸に加えて,文久3年(1863),ここ相国寺近くの二本松にも設けられ,新たな政治拠点となった。慶応2年(1866年)、薩長同盟がここで結ばれたと云われている。

この石標は文久3年に新造された薩摩藩邸跡を示すものである。公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。

 

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宇都宮戸田屋敷<所在地 鴨沂高校、寺町御門北東付近>

 幕末期には第9代藩主・戸田忠恕が天狗党の乱鎮圧失敗で強制隠居処分となり、さらに陸奥棚倉藩に左遷されそうになるなどの危機的状況が続いたが、家老の戸田忠至の尽力により所領を保った。慶応4 年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力しながらも、第15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願を行なうなどしている。

 

 

 

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 郡山柳沢屋敷<所在地 二条城北小学校、智恵光院通下立売南西付近>

 畿内の雄藩として禁裏の守護や京都・奈良の防火活動などを行ったが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に従軍し東北地方まで転戦した。

 

 

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 筑前黒田屋敷<所在地 同志社大学新町校舎北向かい、新町上立売通付近>

 幕末には、慶応元年(1865年)当初、勤王派が主力を占めるが佐幕派の巻き返しにより、家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった。その後、慶応4年(1868年)勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。

 

 

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 備前池田屋敷<所在地 官休庵、元誓願寺通小川東側付近>

 幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。

 

 

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 新発田溝口屋敷<所在地 旧川島織物、ピルサンレジデンス錦綾堀川東、東堀川一条上ル付近>

 戊辰戦争では新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗にあい、阻止される。その後、新発田藩は新政府軍に合流し参戦することとなり、その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。

 

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 唐津小笠原屋敷<所在地 正親小学校北側、中立売通淨福寺東入ル付近>

 幕末の肥前国唐津藩主小笠原長行(1822〜91)は,文久元(1861)年老中となり,第一次・第二次長州征伐では佐幕の立場で活躍した。藩邸は慶応4(1868)年刊「改正京町御絵図細見大成」に描かれる。この石標は同藩邸を示すものである。

 

 

 

 

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 淀稲葉屋敷<所在地 ハローワーク、中立売通大宮南西付近>

 文久3(1863)年には京都所司代として、8月のクーデターに活躍、尊攘派勢力を京都から駆逐する。翌年老中に就任、将軍・慶喜の幕政改革を補佐する重職に就く。慶応4年1月5日、藩主は江戸にいて留守のなか、薩長軍に内応し、鳥羽・伏見の戦に敗れ退却してきた幕府軍の入城を拒み、追撃してきた薩長軍を迎え入れた。この裏切りが幕府に与えた政治的、軍事的な打撃は甚大なものであった。

 

 

 

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 佐賀鍋島屋敷<所在地 智恵光院通上長者町北側>

 幕末の佐賀藩は,藩財政の窮乏と英国艦船の来訪等により藩政改革の必要に迫られ,藩主鍋島斉正(閑叟,1814〜71)は財政強化と軍事力の再編に尽力した。佐賀藩は雄藩として公武合体派の指導的な役割を果たし,斉正は福井藩主松平春岳(慶永)らとともに一橋慶喜(1837〜1913)を擁立して改革派藩主連合の一翼を担った。佐賀鍋島藩の藩邸ははじめ堺町通四条下るにあったが,幕末にいたりこの地に移された。この石標は幕末期の藩邸跡を示すものである。

 

 

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 因幡池田屋敷<所在地 NTT西陣別館、梅香荘、旧堀川変電所、東堀川通中立売下ル東側付近>

この一帯は,江戸時代を通して三十二万石の外様(ざま)大名として因幡(いなば)・伯耆(ほうき)二国を支配した因州鳥取藩の京都藩邸があった所である。  

 京都藩邸は,古くは油小路下立売(あぶらのこうじしもだちうり)にあったが,参勤交代で藩主が立ち寄るのは伏見藩邸であり,京都藩邸の位置付けは高いものではなかった。

幕末期,水戸徳川家から養子に入った最後の藩主 池田慶(よし)徳(のり)(十二代)は,十五代将軍となった徳川慶喜の異母兄で,文久二〜三年(一八六二〜一八六三)頃,たびたび上洛して幕府と朝廷の間に立って周旋を行っている。こうして京都の政治的な重要性が増したため,元治(げんじ)元年(一八六四)二月に鳥取藩は御所の西側,東堀川通中(なか)立売(だちうり)下ル東側において新たな京都藩邸の工事に着手,同年四月二十一日に上棟している。藩邸の西側は東堀川通,北側は中立売通,東側は油小路通,南側は上長者(かみちょうじゃ)町(まち)通に面し,正門は油小路通に位置していた。当時の絵図面によると敷地は三千九百三十二坪であった。ここ因州鳥取藩京都藩邸跡は,幕末動乱期における鳥取藩の政治的立場を偲ばせる場所である。

 

 

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 水戸徳川屋敷<所在地 京都ガーデンパレス、烏丸下長者通北西角付近>

 幕府御三家の一つ水戸藩京屋敷(水戸藩邸)は,江戸中期頃、この地、護王神社北側付近に設けられ,幕末まで続いている。この地の東側は直ぐに宮家、公家の屋敷、その中央に禁裏があり、一方西側は一丁ほど先が二条城(徳川慶喜が大政奉還をした徳川幕府の京都の居城)という地の利で朝廷の動向の情報収集するのに一役買っていたかもしれない。下長者町通烏丸西入北側に水戸藩邸跡を示す碑がある。

 

 

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 備前池田屋敷<所在地 京菓子塩芳軒、黒門通中立売上ル東側付近>

幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。

 

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 二本松丹羽屋敷<所在地グラン・ドムール西陣南、日暮通中立売下ル付近>

幕末期9代藩主・丹羽長富は江戸湾警備で活躍した。戊辰戦争で第10代藩主・丹羽長国は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、各地で敗戦を重ねて慶応4(1868)7月28日に長国は米沢藩に逃亡し、翌日に二本松城は落城した。

 

 

 

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 柳川立花屋敷<所在地京都府児童相談所、西洞院通中立売南側付近>

最後の藩主である12代立花鑑寛は安政年間(1854年 - 1859年)、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を行した。明冶2年(1869年)戊辰戦争での軍功により明治政府より賞典禄5千石を与えられた。

 

 

 

 

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 勝山小笠原屋敷<所在地グランビュー、出水通大宮北西付近>

明治元年(1868年)の戊辰戦争のときは新政府軍に与して京都周辺の警備を担当した。

 

 

 

 

 

 

 

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 仙台伊達屋敷<所在地エルザ御所西、西洞院通中長者町南側付近>

慶応4年(1868) 1月、鳥羽伏見の戦が起こり、戌辰戦争の幕開けとなるが、朝廷は東北諸藩に対して慶喜追討を援けるよう命令し、続いて仙台藩主・慶邦に対して会津藩攻撃を命じた。 仙台藩とともに新政府軍に挑むつもりであったが、細谷十太夫らの進言により中止し箱館に向かっている。

 

 

 

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 中津奥平屋敷<所在地伊藤仁斎宅跡書庫、出水通油小路西入ル南側付近>

慶応4年(1868)最後の藩主9代昌ゆきは戊辰戦争に際し、新政府軍の傘下に入りこの年会津攻撃に参した。

 

 

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 因幡池田屋敷<所在地 油小路通下中立売下ル東側付近>

幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方にいた。

 

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 丸亀京極屋敷<所在地大丸ヴィラ、丸太町通両替町北側付近>

幕末の動乱の中では尊王派として行動し、御所警備のためにたびたび出兵した。慶応4年(明治元年、1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、隣藩の高松藩が朝敵に指名されると、新政府の命令で土佐藩・多度津藩と共に高松藩の追討にあたったが、高松藩主・松平頼聰から新政府に対して赦免を嘆願してもらうように仲介を依頼されて、新政府に取り次いで頼聰を赦免させている。

 

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 京都守護職屋敷<所在地 京都府庁付近>

 京都守護職は,文久2(1862)年、京都の治安維持のために設立された幕府の職で、京都所司代・京都町奉行などの上位に位置づけられた。その役宅は、はじめ黒谷金戒光明寺内に置かれたが、文久3年末この地に新築された。当時、京都守護職の敷地は、約3万坪に及んだという。慶応3(1867)年12月に廃止され、その跡地には京都府庁が移転した。

 

 

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 小松帯刀寓居参考地<所在地 堀川一条東入ル南側付近>

  幕末の薩摩藩・家老小松帯刀の京都における屋敷跡の石碑が京都歴史地理同好会の手で建てられた。この石碑前の一条通北側に近衛家の別邸があり、その一角に小松帯刀の屋敷があったといわれている。二本松薩摩邸とともに薩長同盟締結の大きな舞台となったといわれる。