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  <幕末京都史跡めぐり・中京区>

     □ 六角獄舎跡 <所在地 六角通因幡町>

 平安時代の獄舎(左獄)に遡る。幕末には多くの政治犯を収容。禁門の変では平野国臣、古高俊太郎ら33名の尊攘派志士が処刑された。また山脇東洋により日本で初めて刑死者を解剖したところとして「近代医学発祥之地」の碑がある。

 

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   □  武信稲荷神社 <所在地 三条大宮西二筋目下ル>  

 江戸時代末期のころ、坂本龍馬の恋人おりょう(龍)の父が神社近くの牢屋にとらわれていた時、龍馬はこの榎に登り、おりょうの父の様子を見に来ていたそうです。そのとき龍馬は、後に訪ねてくるはずのおりょうへの伝言としてエノキの幹に「龍」の文字を彫ったといわれている。

 

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   □    近江屋跡<所在地 河原町通蛸薬師下ル西側>  

幕末の1867(慶応3)年、坂本龍馬・中岡慎太郎が刺客に襲われた醤油屋近江屋の跡。「坂本竜馬・中岡慎太郎遭難地」の石碑が京阪交通社の前に建っている。 

 

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□  土佐稲荷・岬神社<所在地 蛸薬師通河原町東入ル>  

 創建は1348年(貞和4年)に遡り、もとは鴨川の中洲の岬にあった。江戸時代の初め頃に土佐藩邸内に遷座されたもので、坂本龍馬などの土佐藩士のほか地域の人々の信仰が深く、参拝のために特に藩邸内への通り抜け参拝を認めていたという事です。明治4年に土佐藩邸が売却され祠も別の地に遷されたが、近江屋の初代が旧土佐藩邸用人屋敷を買い取り、1887年(明治20年)にこの地に遷座させた。

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□   中岡慎太郎寓居跡<所在地 河原町通四条上ル東側>  

 中岡慎太郎(1838〜67)は,土佐藩郷士で坂本龍馬(1836〜67)とともに薩長同盟成立に活躍し,陸援隊を組織し隊長となった。現在は、あぶらとり紙の店「象」となっている。

 

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□ 本間精一郎遭難之地<所在地 木屋町通四条上ル東側>  

 本間精一郎は、越後国出身で文武に長じ、尊王攘夷の急進派として行動したが,酒色に身を持ち崩して志士仲間の反感を買い,文久2(1862)年閏8月、先斗町からの帰途に薩摩・土佐藩志士に暗殺された。

 

 

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□  坂本龍馬の妻お龍独身時代寓居跡<所在地 木屋町通六角下ル東側>

  坂本龍馬の妻お龍(おりょう)が独身時代に住んでいたとされる寓居跡。父の医師 楢崎将作(ならざきしょうさく)の長女、柳馬場三条下ル東側に住んでいたが、父親の死去により、家族は木屋町あるいは四条裏通の借家に転居。木屋町通の高瀬川山崎橋東詰に石碑が建っている。

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□  酢屋・坂本龍馬寓居跡 <所在地 河原町三条下ル一筋目東入ル北側>

 京都滞在中は,この地材木商酢屋(中川嘉兵衛方)に投宿し、ここを海援隊屯所とした。 現在、木の店酢屋として創作木工芸品を扱っている。

 

 

 

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□  三条大橋<所在地 三条通> 

 日本橋から120余里(500キロメートル弱)、天正18(1590)年に豊臣秀吉の命により改築された三条大橋は、東国への出発点として、また京都の表玄関としての役割を果たしていた。橋は江戸時代にたびたび流失したが、幕府によりただちに修復され、昭和25(1950)年に現在の姿になったという。擬宝珠(ぎぼし)は重要文化財。

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   三条小橋<所在地 三条通> 

 三条小橋(さんじょうこばし)は、三条通の高瀬川にかかる橋高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以によって、物流用に開削された川鴨川かかる三条大橋とともに、東海道の起点であり、宿屋や土産物屋の街として栄えた三条小橋のたもとの木屋町通には、幕末維新の志士の寓居跡など、多くの史跡が残る。

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□   三条制札場跡<所在地 三条大橋西詰北側>

 三条大橋側に石垣と木柵に囲まれて役所の公布等の駒札を掲げる制札(高札)場があった。慶応2年(1866)9月12日夜に「三条大橋制札事件」が起きた現場として有名です。明治6年(1873)2月の「法令公布の制」で廃止された。


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□  高山彦九郎像<所在地 三条通>

 林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人。江戸時代中期の後半の勤王思想家で西郷隆盛や高杉晋作、中岡慎太郎など後の勤王の志士たちに多大の影響を与えた。

 

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□  池田屋跡<所在地 三条河原町東入ル北側>

 池田屋は、新選組がその名を轟かせた舞台です。三条小橋近くにある池田屋は長州藩関係者がよく利用していた。元治元(1864)年6月5日、 京都三条小橋の旅館池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷過激派を襲った。跡地は平成21(2009)年、居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」になっている

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□  佐久間象山先生遭難之碑<所在地 木屋町通御池上ル西側>

 佐久間象山は幕末の洋学者・兵学者。開国論・公武合体論を力説し、元治元年7月この地で攘夷派の刺客に暗殺された。三条通りと木屋町通りの交差点・三条小橋東側に石碑が建っている。

 

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□   大村益次郎卿遭難之碑<所在地 木屋町通御池上ル西側>

 大村益次郎は長州藩出身。旧名は村田蔵六。明治政府で兵制改革を行ったが、廃刀論などで反感を買い、明治2(1869)年この地で反対派の士族の刺客に襲われ、敗血症で亡くなった。三条通りと木屋町通りの交差点・三条小橋東側に石碑が建っている。

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   武市瑞山先生寓居跡、金茶寮 (丹虎跡)<所在地 木屋町通三条上ル東側>

 土佐勤王党の盟主、武市瑞山の京都での拠点「四国屋丹虎」跡です。
木屋町姉小路にあり、瑞山の家の2軒隣に同じく土佐藩の吉村寅太郎の寓居もあった。現在は料亭金茶寮となっている。四国屋丹虎は池田屋事件の際に、土方歳三率いる別働隊が探索した。



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□   吉村寅太郎寓居跡<所在地 木屋町通三条上ル東側>

 吉村寅太郎(1837〜63)は,土佐藩出身の尊王攘夷派の志士。武市瑞山の勤王党に加盟し,脱藩して国事に奔走するが捕えられて送還される。再度上洛して,藤本鉄石等と天誅組を組織し倒幕の兵をあげるが,蜂起後40日余りで大和国吉野で敗死した。

 

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□  佐久間象山寓居跡<所在地 木屋町通御池下ル東側>

  佐久間象山(1811〜64)は,信濃国松代藩出身で兵学蘭学を学び,江戸で勝海舟・吉田松陰等に砲学を教えた。開国論を唱え,嘉永7(1854)年吉田松陰の米艦乗込事件に連座し,その後8年間松代で蟄居した。元治(1864)年3月幕命で上京し,開国論を披瀝した。同年5月象山最後の住居であるこの地に移った。同年7月11日騎馬で山階宮家よりの帰途に暗殺された。

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□  桂小五郎・幾松寓居跡<所在地 木屋町通御池上ル東側>

 維新三傑の一人、木戸孝允(1833〜77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,幾松の機転で助かったこともあると伝える。現在は料理館「幾松」となっている。

 

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   桂小五郎像<所在地 河原町通御池上ル>

 長州藩京都屋敷があった場所である京都ホテルオークラ北西の角に桂小五郎の像が鎮座している。長州の代表として薩長同盟を締結した桂小五郎は、西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑と称される、偉大な人物である。
 

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□   木戸孝允邸跡<所在地 河原町通竹屋町東入ル>

 維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833〜77)が明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877)年,危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れた。

 

   

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□  横井小楠殉節の地<所在地 寺町丸太町下ル東側>

 横井小楠(1809〜69)は,熊本藩出身で江戸で朱子学を学んだが,安政の頃には開国論者となった。藩政改革に失敗するが福井藩に招かれ改革を指導した。藩主松平春嶽(1828〜90)が政治総裁職につくとこれを助けて公武合体運動を推進した。失脚後帰国したが,新政府の参与として出仕した。明治2(1869)年正月5日,御所参賀の帰途この地で暗殺された。

 

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□  橋本左内寓居跡<所在地 東堀川通二条下ル東側>

  橋本左内(1834〜59)は,福井藩出身で父は藩医であった。大坂で緒方洪庵(1810〜63)に医学洋学を学んだ後,江戸に出てさらに蘭学医学を学んだ。藩主松平春嶽(1828〜90)に認められ藩医・御書院番・藩校学監となり,藩政改革に尽力した。将軍継嗣問題で藩主を助け一橋慶喜擁立を周旋したことを罪に問われ,安政の大獄で斬首に処せられた。京都国際ホテル玄関口に、橋本左内寓居の跡を示す石標が建っている。  

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□  京都所司代上屋敷跡<所在地 東堀川通二条下ル東側>

  所司代の名称、役職は、室町幕府の侍所にはじまり、徳川幕府に受け継がれた。徳川時代の所司代は、関ヶ原合戦の直後設けられ、皇室、公家の監視に京都諸役人の統率、京都町方の取締り(町方は、のち京都町奉行が行った)、さらに近畿八カ国の訴訟処理、四国33カ国の大名の動静監視など強い権限を持つもので、幕府の老中につぐ最重要役職であった。初代奥平氏のあと、二代、三代は、板倉勝重、重宗父子が任じられ、特に、重宗は、名所司代の誉れ高く、京都市政の根本法規を制定した。文久2(1862)年、京都守護職が設けられると、所司代は、その管轄下に属し、王政復古によって廃止された。跡地には、明治3年、我が国最初の中学校「京都府立京都第一中学校が建てられた。

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□  二条城<所在地 二条通り堀川西入ル>

 二条城は慶長6(1601)年徳川家康が上洛の際の宿泊舎として建てた。大広間一の間では慶応3(1867)年徳川15代将軍慶喜が大政奉還を上奏し、徳川政権の最後の舞台となった場所。


 

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   旧前川邸<所在地 壬生賀陽御所町>

 八木邸とともに新撰組が屯所とした屋敷で、古高俊太郎を拷問した蔵などが残る。非公開だが土曜・休日は玄関で新撰組グッズを販売している。

 

 

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□  壬生寺<所在地 坊城通仏光寺北入ル>

壬生寺は律宗の寺院で正式には心浄光院 宝憧三昧寺といいます。正暦2(991)年三井寺の僧快賢が創建しました。中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のため壬生狂言を始めたことから地蔵信仰が盛んになりました。結構大きな寺です。近藤勇の胸像や新撰組隊士の供養塔、芹沢鴨ら隊士の墓などがある。

 

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   □  新徳寺<所在地 壬生賀陽御所町>

清河八郎は出羽庄内藩の郷士の家に生まれる。清河によって集められた浪士隊が本営を置いた寺。尊皇攘夷の演説をぶつが、清河の意見に反対した近藤や芹沢と袂を分かち江戸へ戻る。その直後に暗殺される。

 

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□  八木邸<所在地 壬生椰ノ宮町>

八木家は、壬生村きっての旧家で、かって壬生郷士の長老をつとめていまた。また、幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建っている。当家に残る普請願から長屋門は文化元(1804)年、主屋は文化6(1809)年の造営と判明しています。昭和58(1983)年6月1日京都市指定有形文化財に指定されている。