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<京屋敷めぐり・中京区>

 

相馬中村屋敷<所在地 京都地方裁判所、丸太町通柳場場下ル東側付近>

 相馬氏13代260余年。慶応4年5月に奥羽越列藩同盟が結ばれるとこれに加盟しています。藩主が幼少のうえ襲封直後のため、藩政は保守派の門閥層に委ねられ、ために、明確な藩論を形成することはなく、大勢に順応する他なかったようである。

 

 明石松平屋敷<所在地 麩屋町 竹山局、御幸町通丸太町下ル付近>

 幕末には御家門の立場上、佐幕派となり鳥羽伏見の戦いでも幕府方として参戦。その後、明治政府方に帰順した。

 

 

出石仙石屋敷<所在地 フォルム御幸町、御幸町通竹山町下ル付近>

 戊辰戦争の時、藩内は勤王、佐幕に分かれるが、藩主仙石久利は勤王に与し、藩は京都警護に上洛した。

 

 

小倉小笠原屋敷<所在地 御所南小学校、柳馬場 通夷川上ル付近

 幕末の長州征伐では幕府側の九州側最先鋒として第一次、第二次とも参戦した。慶応元年(1865年)の第二次戦争の際には奇兵隊により門司が制圧され、危機を感じた小倉藩兵は慶応2年8月1日(1866年9月9日)小倉城に火を放ち(小倉城自焼は一説に熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも)田川郡香春(現・香春町)に撤退した。この際、香春藩となった。香春撤退後も家老島村志津摩を中心に金辺峠に拠り高津尾を前線基地として長州兵に遊撃戦を挑み一時は小倉城を奪還したが今村、徳力、守恒、蒲生等の企救平野各地で敗れ高津尾の決戦で金辺峠へ敗走した後に停戦した。

大垣藩戸田屋敷<所在地 KFSファッションスクール、富小路通二条下ル東側付近>

 第11代藩主・戸田氏共は第2次長州征伐に参加し、慶応2年(1866年)から藩政改革を断行している。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは大垣軍と新政府軍が戦い、佐幕派となる。しかし家臣の小原鉄心は氏共を説得して尊王派に藩論を統一し、戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めている。そのため、明治2年(1869年)6月に新政府から賞典禄3万石が下賜された。

川越松井屋敷<所在地 中京税務署、柳馬場通二条下ル付近>

 松平康英(やすひで)、1865年棚倉藩主、翌年川越藩主を襲封。戊辰戦争にさいし新政府に恭順した。

 

越前松平屋敷<所在地 京都国際ホテル、二条通堀川東南付近>

 藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。

 田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。

古河土井屋敷<所在地 堀川音楽高校、油小路通押小路下ル付近>

 古河藩土井氏は老中職・京都所司代など江戸幕府の要職を勤めた。最後の藩主利与は尊王か佐幕か藩内で議論が戦わされたが、家老小杉監物の決断により、尊王に決した。

 

姫路酒井屋敷<所在地 京都国際ホテル北側、油小路通二条上ル付近>

 幕末には藩主酒井忠績が1865年に大老となり、勤王派の制圧に力を振るったが1867年に蟄居した。弟で次の藩主になった酒井忠惇は老中となるが、鳥羽・伏見の戦いで徳川将軍家の徳川慶喜に随行して大坂退去にも同道したので、戊辰戦争では姫路藩は朝敵の名を受け、官軍により攻撃された。慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明したため、忠惇も姫路城を早々に開城して蟄居し、藩主の地位を分家上野伊勢崎藩酒井家から迎えた忠邦に譲った。

 若狭酒井屋敷<所在地 神泉苑、小路矢城通一帯>

  若狭小浜藩主は譜代大名の酒井家であった。その京都藩邸は,江戸時代を通じて二条城南西のこの地にあった。幕末の小浜藩邸は京都所司代酒井忠義(12代,1813〜73)の本拠で,将軍後見職一橋慶喜が最後の将軍として二条城に入るまでの3年10ヶ月を過ごし,大政奉還への道筋を構想した場所とされる。安政5(1858)年京都所司代に再任された酒井忠義は,井伊直弼の命で勤王の志士を一網打尽にた。13代忠氏(1835〜76)は水戸天狗党を追討した。鳥羽伏見戦では,東軍(幕府軍)に従い橋本で敗れ,敗走途中に山陰鎮撫総督に降伏し,以後官軍に協力した。

この石標は若狭小浜藩邸の跡を示すものである。なお,石標の文字は酒井家の現当主が揮毫し,近くの住家庭園に残っていた藩邸の燈籠も移された。

 上田松平屋敷<京都アスニー、京都中央図書館、千本丸太町西側南北一帯>

 譜代松平氏5.3万石。慶応4年1月24日、北陸道鎮撫の新政府軍先鋒隊到着により、藩論がひっくり返り、官軍に属した。

 

 

 伊予松平屋敷<高倉小学校、高倉通六角下る西側付近>

 幕末は親藩大名として、幕府側につき「禁門の変」や「長州征伐」に参加、明治維新では朝敵として追討を受けることになる。当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしとする恭順論者と、薩長と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主・定昭は恭順論を入れ、ここに松山藩は朝廷に対し王命に敵対する意志のないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に入れ、藩主が常信寺において謹慎することとになった。これにより、追討は免れている。

 

 米沢上杉屋敷<京都YMCA、三条通堺町通下る西側付近>

 戊辰戦争では、会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同盟に加わり、仙台藩とともにその中核を担うこととなった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には新政府軍に敗北を重ね、羽越国境の大里峠まで迫られたところで降伏した。その後、新政府軍の命により庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対しても降伏を説得した。

 

紀州徳川屋敷<大西清右衛門美術館、三条通新町西入ル付近>

 1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼までもを担ったのである。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。

 

 津藤堂屋敷<堀川高校、東堀川錦小路上ル付近>

 関ヶ原の先行で江戸開府以来、三重県津市の津城が居城となった藤堂多可虎を藩祖とする表高32万3千石の大藩の京都屋敷址である。外様でありながら異例な別格譜代の家でもある。幕末の津藩は鳥羽・伏見にあって、幕府と新政府軍の戦いを日和見していたが、幕軍が劣勢になるや急遽、新政府軍に加担。幕府軍を敗走せしめた藩の一つといわれている。幕末の慶応4(1868)年の所在地は絵図によると壬生川通綾小路上ル東側・光縁寺より西側の区域となっている。

 

 長州毛利屋敷<京都ホテルオークラ、河原町蛸薬師通東入ル付近>

 

 

 

 

 高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は江戸時代初期に長州藩毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。藩邸は、初め南北二か所に分かれ、北側屋敷は表口三十九間(約70m)、裏行三十一間(約56m)、南側屋敷は表口三十間(約54m)、裏行八間(約14m)に及んだ。元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。

 

 加賀前田屋敷<御池通河原町東の高瀬川筋>

 加賀藩前田家の藩邸は,天明8(1788)年焼失し,その後再築された。慶応2(1866)年,鳥羽伏見の戦に出兵したが,幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。この石標は加賀藩邸の跡を示すものである。

 

 対馬宗屋敷<京都ロイヤルホテル、河原町蛸薬師通東入ル付近>

 京都藩邸は「河原町三条上ル」、京都の繁華街四条河原町の北である。江戸時代物資輸送の大動脈であった高瀬川沿いにあり、対馬藩は高瀬川を使って日朝貿易の輸出入品などを運び込んだ。元治元(1864)年6月5日、新撰組が尊皇攘夷派志士を襲撃した池田屋事件の際、長州藩士桂小五郎(木戸孝允)が対馬藩邸に逃げてきたとの説がある。対馬藩邸は長州藩邸に近く、また対馬藩と長州藩は、藩主宗義章の妻が長州藩主毛利家の娘(万寿、慈芳院)、親類であった。

 

 彦根井伊屋敷<京劇会館の南側、木屋町通三条下ル付近>

 この彦根藩の井伊家京屋敷(彦根藩邸)は、江戸後期に、高瀬川と河原町通の間におかれ、彦根藩の京都連絡事務所として使われていました。

 1867(慶応3)年の大政奉還の後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向、「鳥羽伏見の戦い」では官軍の後方支援として参戦しています。現在、西木屋町通の山崎橋の北に「彦根藩邸跡」を示す石碑がある。

 

 土佐山内屋敷<旧立誠小学校、河原町通蛸薬師東入ル南側付近>

 この地には江戸初期から明治4(1871)年まで土佐藩主山内家の藩邸があった。

 幕末期に藩主山内容堂(1827〜72)は公武合体を目指したが,のちに勤王党が台頭した。文久3(1863)年8月18日の政変以後は尊王攘夷を弾圧したが,坂本龍馬(1836〜67)等の尽力で薩長同盟が成立し,後藤象二郎(1838〜97)の進言を入れて大政奉還を建白するに至った。この石標は土佐藩邸の跡を示すものである。

 

 高槻永井屋敷<洛中小学校、壬生坊城町付近>

 永井氏3万6千石。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いでは東高野街道の洞ヶ峠の警備を任されるが、新政府軍と交戦せず高槻城に退いた。

 

 津藤堂屋敷<アークホテル、壬生賀陽付近>

 関ヶ原の先行で江戸開府以来、三重県津市の津城が居城となった藤堂多可虎を藩祖とする表高32万3千石の大藩の京都屋敷址である。外様でありながら異例な別格譜代の家でもある。幕末の津藩は鳥羽・伏見にあって、幕府と新政府軍の戦いを日和見していたが、幕軍が劣勢になるや急遽、新政府軍に加担。幕府軍を敗走せしめた藩の一つといわれている。幕末の慶応4(1868)年の所在地は絵図によると壬生川通綾小路上ル東側・光縁寺より西側の区域となっている。

 

 出雲松平屋敷<二条通西洞院西入ル付近>

幕末には政治姿勢が曖昧で幕府方・明治新政府方どっちつかずであったため新政府の不信を買った。結局は新政府方に恭順することとなり、戊辰戦争に参戦。慶応4年(1868年)京都の守備についた。

 

 弘前津軽屋敷<TOTOショールーム、釜座通御池下る津軽町西側付近>

 現在の青森県西部を領地とする外様藩である。戦乱が東北に及ぶと盛岡藩等と同調して当初奥羽越列藩同盟に参加したが、早々に離脱して新政府軍に加担した。この功により、藩主津軽承昭に賞典禄一万石が与えられた。

 

 篠山青山屋敷<スーパーフレスコ、烏丸通六角下ル東側付近>

 最後の第6代藩主・青山忠敏の時代である慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、歴代藩主は幕閣であったが藩内は佐幕派、新政府派に分かれて対立した。しかし、西園寺公望率いる新政府軍が篠山に侵攻すると、新政府に恭順した。

 

 郡上青山屋敷<油小路通堀川三条下ル南側付近>

 最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子、朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。

 

 忍松平屋敷<フォルム錦小路、国民金融公庫、東洞院通蛸薬師下ル東側付近>

 慶応3年(1867年)の大政奉還後、第4代藩主・松平忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、戊辰戦争が起こると前藩主、忠国の登場もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は東北に出陣した。

 

 尾張徳川屋敷<京都芸術センター、室町通錦小路上ル付近>

 藩祖徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えてきた勤皇家。このこと及び、将軍を輩出できなかったこと、将軍家から11代から14代まで養子を押し付けられ続けた(家斉の子供以外にも家斉実家の一橋系から養子に入っている)ことなどにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。

 

 久留米有馬屋敷<ホテルマイスディス京都四条 、四条通油小路北東側付近>

 幕末には勤王家、真木和泉が出たものの、藩論の大勢は佐幕であった。しかし、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると明治政府方に転じた。だが、後に過激な攘夷派が政権を掌握して二卿事件と呼ばれるクーデター未遂事件と関わったために、明治4年(1871年)に明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠された(久留米藩難)。

 

 角倉屋敷<日本銀行京都支店、河原町二条南東角一帯>

 元立誠小学校正門前に角倉了以のレリーフがある。角倉了以は、吉田が元の姓で、大堰川に舟を通じ、富士川を開き、大仏再建にあたっては、鴨川運河を開き、後これが高瀬川の開削となった。角倉家はまた海外貿易も行い、国内の鉱山開発にも尽力した。高瀬川は、了以・素庵父子2代の事業として完成し、明治に至るまで運河としての機能を果した。角倉家は高瀬川開削の功により、河川奉行に任ぜられ、その俸禄は200俵であったが、実収は数千石あったといわれ、徳川家も旗本格で遇したという。

 

 近江板倉屋敷<京都堀川イン、東堀川通姉小路下ル付近>

 安土桃山時代から江戸時代前期の旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。1609年(慶長14年)には近江・山城に領地を加増され1万6,600石余を知行、大名に列している。