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 <京屋敷めぐり・左京区>

 

尾張徳川屋敷 <所在地 京都大学本部一帯、百万遍交差点東南付近>

 藩祖徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えてきた勤皇家。このこと及び、将軍を輩出できなかったこと、 将軍家から11代から14代まで養子を押し付けられ続けた(家斉の子供以外にも家斉実家の一橋系から養子に入っている)ことなどにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。

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土佐山内屋敷<所在地 京都大学農学部、理学部、知恩寺の東側付近>

 

 この地には江戸初期から明治4(1871)年まで土佐藩主山内家の藩邸があった。幕末期に藩主山内容堂(1827〜72)は公武合体を目指したが,のちに勤王党が台頭した。文久3(1863)年8月18日の政変以後は尊王攘夷を弾圧したが,坂本龍馬(1836〜67)等の尽力で薩長同盟が成立し,後藤象二郎(1838〜97)の進言を入れて大政奉還を建白するに至った。この石標は土佐藩邸の跡を示すものである。

 

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会津松平屋敷<所在地 京都大学薬学部一帯、川端通近衛南側付近>

  幕末、松平容保が京都守護職となり、この地に平屋敷を設け、主に練兵場として使用した。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにも関らず朝敵とされたのである。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。

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  加賀前田屋敷<所在地 みやこめっせ、市美術館、国立近代美術館、府立図書館付近、 岡崎道仁王門北側付近>

 加賀藩前田家の藩邸は,天明8(1788)年焼失し,その後再築された。慶応2(1866)年,鳥羽伏見の戦に出兵したが,幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。この石標は加賀藩邸の跡を示すものである。

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  越前松平屋敷<所在地 武道センター付近、冷泉通南北一帯>

 藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京大絵図」に描かれている。田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。

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彦根井伊屋敷<所在地 左京税務署、丸太町桜馬場通北側>

 この彦根藩の井伊家京屋敷(彦根藩邸)は、江戸後期に、高瀬川と河原町通の間におかれ、彦根藩の京都連絡事務所として使われていた。1867(慶応3)年の大政奉還の後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向、「鳥羽伏見の戦い」では官軍の後方支援として参戦している。現在、西木屋町通の山崎橋の北に「彦根藩邸跡」を示す石碑がある。

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  安芸浅野屋敷<夷川発電所、水道局疎水事務所付近>

 長州征伐で広島は最前線基地となり、戦争景気となったが長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上、幕府の敗退に終わると、安芸藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、 慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を推進するなどしている。このため、安芸藩は明治政府の中枢から排除されることにはなったが、明治政府軍に加わって戊辰戦争を戦った。

 

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  盛岡南部屋敷<夷川発電所、水道局疎水事務所付近>

 幕末期、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に奥羽越列藩同盟の名の下に、隣国の大藩・仙台藩の先兵として新政府軍に抗った盛岡藩は仙台藩の指示に従い、新政府方であった秋田藩(秋田県)・弘前藩(青森県)の領内に乱入、対戦する道を選んでしまい、朝敵となった。