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<京屋敷めぐり・下京区>

犬山成瀬屋敷<所在地 三井ガーデンホテル四条、西洞院通四条下ル付近>

公武合体を支持し、鳥羽伏見の戦いでは御所を警衛し、二条城を接収。その後は佐幕派の一掃に努めた。

 

 

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 阿波蜂須賀屋敷<所在地 京都産業会館、四条通室町東入ル付近>

 慶応4(1868)年1月、藩兵が、鳥羽・伏見の戦いに参加している。その後那賀郡伊島沖で、薩摩藩と旧幕府の軍艦が交戦している(阿波沖海戦)。斎裕が没したので、襲封した斉裕の長男・茂韶(もちあき:斉裕の第2子)は、すぐに討幕の旗色を明らかにした。また、戊辰戦争に際しては、淡路の稲田家主従に東征軍への参加を命じ、8月には会津討伐にも参加した。

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 安芸浅野屋敷<所在地 みずほ銀行、四条通室町東入ル付近>

長州征伐で広島は最前線基地となり、戦争景気となったが、長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上、幕府の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応 3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を推進するなどしている。このため、広島藩は明治政府の中枢から排除されることにはなったが、明治政府軍に加わって戊辰戦争を戦った。

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 薩摩島津屋敷<所在地 大丸西側、錦小路通東洞院東入ル付近>

 文久3年(1863)に二本松薩摩藩邸が設けられるまで、160年間に渡ってこの地に藩邸が置かれていた。この藩邸は蛤御門の変(禁門の変)で焼失し、代わって二本松藩邸が政治の拠点となる。

 

  公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。

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 肥後細川屋敷<所在地 松原中学校、仏光寺壬生川西南角付近>

 肥後藩細川家の藩邸は,江戸中期には柳馬場押小路にあったが,幕末この地に移った。この石標は同藩邸跡を示すものである。

 

 

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 園部小出屋敷<所在地 醒泉小学校、醒ケ井通松原下ル付近>

 慶応3年12月、藩主・小出英尚は入京して、市中見廻役をつとめていた。鳥羽・伏見の戦いには参加しなかったが、情勢によっては明治天皇を園部城へ移すという新政府の戦略に応じて、慶応4年1月から城郭の緊急改造を行った。

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 丹波亀山屋敷<所在地 亀山稲荷、松原通室町西入ル付近>

亀山は現京都府亀岡市。江戸時代前期,広島藩邸があったこの地に,享保15(1730)年頃,丹波篠山藩主松平信岑(1696〜1763)の屋敷が置かれた。寛延元(1748)年,信岑が丹波国亀山に転封されたのに伴い,同藩邸となり,明治3(1870)年民有地となるまで存続した。この石標は亀山藩邸跡を示すものである。

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棚倉阿部屋敷<所在地 三井住友海上、綾小路烏丸通東入ル南側付近>

戊辰戦争では、阿部正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において新政府軍と対峙。1868年(慶応4年)6月 棚倉城落城、正静は降伏した。維新後は4万石減封。

 

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 出羽佐竹屋敷<所在地 野村證券、河原町通四条上ル東側付近>

明治維新に際しては、当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬ったうえ明治政府側に寝返った。これによって列藩同盟の攻撃を受けたものの、明治政府が派遣した佐賀藩兵の助けもあって持ちこたえた。

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福知山朽木屋敷<所在地 住友信託、滋賀銀行、烏丸通四条南側付近>

幕末期は佐幕派として摂津の海防警備、禁門の変、第2次長州征伐に参加した。

 

 

 

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水口加藤屋敷<所在地   トーセー、綾小路通東洞院東側付近>

天和2年(1682)石見国から加藤明友が入り水口藩が成立、以後明治維新まで続いた。