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会津若松城(国史跡)
大内宿(重伝建保存地区)

 

 会津若松城(写真左)は、至徳元年(1384)芦名直盛が築いた東黒川館(後の黒川城)が始まりで、芦名氏の滅亡後、会津42万石の領主として蒲生氏郷が入城すると、氏?は文禄元年(1592)から城を石垣造りに大改築した。氏?亡き後は(1595)、上杉景勝(1598)、加藤嘉明(1627)と次々と領主が代わり、以降、保科正之(1643)より松平11代が幕末まで居城とした。

 幕末の戊辰戦争(1868)では、一か月に及ぶ籠城戦に耐えたが、ついに、会津城下は戦火にさらされ、その多くは焼失してしまい、明治7年(1874)廃城となった。悲劇からおよそ100年後の昭和40年(1965)、古写真を元に五重の天守を再建、平成23年(2011)には、天守や走長屋の屋根瓦が幕末当時の壊れにくい赤瓦に葺き替えられ、古の姿をよみがえらせた。

 今回の旅は、現存する天守閣では日本唯一の赤瓦に葺き替えられた会津若松城(鶴ヶ城)を皮切りに、寺院や商家、蔵元などが建ち並ぶ七日町周辺、白虎隊十九士が自決し、今も眠る悲劇の舞台・飯盛山から白虎隊も学んだ藩校日新館などを訪ねた。

 次に向かった、下郷町の大内宿(同右)は、会津城下と日光を結ぶ会津西街道、32里の区間の中で、会津から2番目の宿場として1640年頃に整備された。全長約450mの往還には、店自慢の味が楽しめる蕎麦屋や土産物屋、民宿など50数戸の寄せ棟造り、茅葺き屋根の民家が軒を連ね、江戸時代の宿場の景観をよく残している。

 

 

 会津若松城(鶴ヶ城)(国指定史跡)

天守閣と石垣

 白壁の五層五階の秀麗な天守閣。七重天守を五重に築き直した天守で、走り長屋が連なっている。

 天守台の石垣を支えているのは、氏郷が築いた自然石を加工せずにそのまま積む「野面積み」の石垣です。

本 丸

 本丸を中心に、二の丸、西出丸、北出丸、三の丸が配され、石垣、土塁が現存している。

武者走り

 このV字型の武者走りは全国的に見ても珍しく、若松城の特色の一つでもある。大手門となる太鼓門の渡り櫓などへ簡単に昇り降りができるように作られている。

御三階跡

 かつて本丸内には数多くの建物があったが、その一つに「御三階」と呼ばれる建物があった。主に会議等に使用されたとされるこの建物は、市内の阿弥陀寺に移築され今も大切に保存されている。

茶室 麟 閣(県指定重要文化財)

 天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられたが、秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、千家の再興を願いでたのです。この恩義に報い少庵が建てたのがこの「麟閣」と伝えられている。その結果、少庵は許され、京都へ帰り千家を再興することができた。

月見櫓

 月見櫓は二重の櫓で、物見櫓として横矢がかりとして重要な位置にあり、中には常に武器が収められていた。城内の月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから、この名がつけられた。

茶壺櫓

 茶壷櫓は二重の櫓で、中には重要な茶器類や武器が収められていた。本丸の旧大手に通じる廊下橋の横矢がかりとしても重要な櫓でした。

荒城の月碑

 「荒城の月」が若松城と青葉城をモチーフに作詞されたことは、昭和21年の土井晩翠氏を招いた講演会で明らかとなった。学生時代に荒廃した若松城を訪れ、「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれる。この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月の1番から4番までの歌詞が記されている。

二の丸・廊下橋

 廊下橋は二ノ丸から本丸へ渡る橋です。加藤明成の大改修まではここが大手口でした。葦名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋(木橋)と呼ばれた。

水濠と高石垣

 壕と石垣で本丸を囲んでいる。

枡 形

 三の丸以外の各門は枡形になっていて、壕と堅固な石垣で築かれた枡形は外敵から城を守る大切な役割を担っていた。

西出丸・太鼓門

 北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれる櫓が建てられ、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから太鼓門と呼ばれた。

北出丸

 城の大手口を守る重要な場所です。本丸の北と西には堅固な総石垣で囲まれた北出丸と西出丸を置いている。


 城下周辺の名所・旧跡 飯盛山

 

会津若松藩校 日新館跡

田中玄宰ゆかりの地 

 白虎隊の少年達も文武を学んだ藩校日新館は戊辰戦争で焼失し天文台跡が今に残る唯一の遺構です。基底12間余、台上方5間半、高さ3間半で、天文学習の観測場でした。天文学の授業でどれほど実測用に活用されたか不明ですが、冬至の日には、暦学家や天文師範などが集まって、明年の雲気候や、晴雨考を編んで官に提出した。

山本覚馬・新島八重生誕の地

 鶴ケ城の西口から約500メートル、新島八重と兄の山本覚馬の生家である山本家があった付近に立つ碑。1989年に同志社が建立した。戊辰戦争で鶴ケ城に籠城して戦った八重が、会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が刻まれている。

山鹿素行生誕の地

 山鹿流兵学をおしえ、赤穂四十七士の生みの親。1662年、町野左近の邸内に生まれた。会津藩主は、蒲生忠郷。ここは、武家屋敷が多く並んでいた。素行は、父が伊勢亀山から会津に来た年に生まれた。6歳の時、父に従い江戸に出る。9歳で林羅山の門に入る。儒学・国学・新道・兵学をきわめる。兵学では、山鹿流の一派をなした。1926年、東郷平八郎の書により、碑が建立された。

 

直江兼続屋敷跡

 この場所は城に近く、「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所。蒲生氏郷による町割以後、ここは重臣の屋敷がおかれた。1598年、越後から会津に上杉景勝は移ってきた。上杉家筆頭家臣、直江兼続の屋敷に、ここを与えた。兼続は、景勝から信頼を受け、米沢領(約6万石)の支配を任された。1600年、景勝が神指原に新城を築こうとした。兼続は、普請奉行としてその指揮にあたった。関ヶ原の合戦で、徳川家康が勝利し、上杉家は敵側として米沢30万石に減封された。

 

蒲生氏郷公墳墓の地

興徳寺

 天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷を奥羽の押さえとして会津に封じた。氏郷は黒川といったこの町を郷里(滋賀県日野市)の森の名にちなみ「若松」と名づけた。また鶴ヶ城や城下町を整備し、漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注いだ。しかし会津の領主となって僅かに5年後に、文武両道に秀でた氏郷も、病のため京都で不帰の人となった。興徳寺の五輪塔には遺髪が収められ、辞世の歌碑も建っている。

『限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風』

 氏郷公の墓の近くには会津松平家九代藩主会津の最後のお殿様 松平容保公の歌碑も建立されている。

『百とせを 三たびかさねし若松のさとは 幾千代 榮えゆくらん』

 

旧滝沢本陣(国重要文化財)

 旧滝沢本陣(横山家住宅)は旧白河街道(会津街道)に設けられた施設で会津藩主の参勤交代に利用された。戊辰戦争では鶴ヶ城(会津若松城)と滝沢峠を結ぶ戦略的拠点となり当時の藩主だった松平容保が白虎隊を率いて出陣した場所でも知られている。

 昭和46年(1971)に国指定重要文化財に、昭和45年(1970)に敷地全体が国指定史跡に指定されている。

 

さざえ堂

 正式名称を「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といい、寛政8(1796)年、福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5メートル、六角三層の仏堂である。

 二重螺旋構造の堂内には西国三十三観音像が安置されていて、参拝者はお堂をめぐっていくことにより、これらすべての観音像にお参りができる。さらに、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造となっているため、参拝者は他の参拝者とすれ違うことなく堂内をめぐることができてしまう。平成8 年(1996)に国の重要文化財に指定されている。

戸ノ口堰洞穴

 猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水堰で全長31km に及ぶ。慶応4年(1868) 戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞窟である。

白虎隊殉難士各霊塔

 白虎隊の自刃したところに白虎隊殉難士各霊塔が建てられている。明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した隊士の遺骸は、手をつけることを禁じられ、哀れに思った滝沢村の吉田伊惣治が、西軍の目を盗んで妙国寺に埋葬し、明治17年にこの場所に十九士の墓が建てられた。

会津武家屋敷

 会津武家屋敷は江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心にした、屋外博物館(ミュージアムパーク)です。福島県重要文化財である旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねる。

御薬園(文化財指定庭園)

 旧会津藩主松平氏の別荘で、もと藩の薬園のあったことから「御薬園」の名で親しまれている。庭園の築造年月は明らかでない。江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている。


 会津藩校 日新館

 江戸時代、全国三百藩校の中でも規模内容ともに随一と謳われたのが、会津藩校の学校「日新館」です。五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時代に、家老田中玄宰(はるなか)の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって計画され5年の歳月をかけ享和3年(1803年)に鶴ヶ城の西側に一大学問の殿堂として完成した。

 広さは東西226メートル、南北116メートル、面積8000坪、建物は1500坪ありました。幕末に飯盛山で自刃した白虎隊の少年たちも勉学はもちろんの事、「ならぬものはならぬ」の精神を学び、未来に夢をはせていた。

 残念ながら戊辰戦争において、焼失してしまった日新館ですが、昭和62年に会津の精神文化を後世に伝えようと完全復元された。

 

 

什の掟(じゅうのおきて)

日新館入学前の6歳〜9歳までの子供たちへ、徹底的に教え込まれていた。

1、年長者(としうえのひと)の言うことに背いてはなりませぬ

2、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

3、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ

4、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

5、弱いものをいぢめてはなりませぬ

6、戸外で物を食べてはなりませぬ

7、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ

  ならぬものはならぬものです。

南 門

 この門は藩主を初めとする上級武士だけが出入りを許され、普段は閉じられていた。生徒の登下校は両側にある東門と西門を使用していた。

戟 門(げきもん)

 左室に太鼓を置き、これを打ち鳴らして時を知らせていた。

大成殿

儒教の祖である孔子を祀った建物。

素読所

 素読所は初等教育を行う場所で、東を東塾、西を西塾と呼ばれる。10歳になった武士の子供は、素読所へ入学すると、まずは論語を中心に漢文の読み方を学習する。

東 塾

 東塾には三礼塾・毛詩塾・書学寮・和学神道雅楽方の教室が設置されている。

西 塾

 西塾には尚書塾・二経塾・書学寮・医学寮・礼式算術天文方・神道和学方の教室が設置されている。

大 学(講釈所)

 大学に相当する施設「講釈所」も備えており、試験に合格すれば講釈所へ進学することが出来た。

水練場

 よろいかぶとを身に着けたまま、泳ぐ練習をしていた。


 

 七日町周辺

阿弥陀寺 御三階

 御三階はかつて鶴ヶ城本丸にあり、秘密の相談をする時に使った建物と云われている。境内には東軍墓地や新撰組斎藤一の墓もある。

渋川問屋

 120年以上もの歴史を持つ元海産物問屋。会津の郷土料理が楽しめる食事処と宿泊施設がある。

末廣酒造

 1850年の創業時から続く会津の米と天然水にこだわり、酒造りに取り組んでいる。蔵見学では、酒造りの手順や酒米の種類などについて解説してくれる。


 大内宿(重要伝統的建造部群保存地区)

 

大内宿町並み

 会津若松から南へ抜ける下野街道(日光街道)の2番目の宿場として1640年代に整備された大内宿は、全長約450mの往還を挟んで、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並んでいます。ほとんどの家が茅葺きで、街道は会津藩主の参勤交代路や、江戸への廻米路として利用された。

下郷町 町並み展示館

 江戸時代には大内宿の本陣となっていた茅葺きの建物。当時の風習を伝える写真や生活用具が展示されている。

茅の材料

 屋根の材料となる「茅」は地元の茅場で育てられている。これが茅屋根の材料です。

山本屋

 約200年前に建てられた茅葺民家。土間から上がると、広い板張りの座敷で昼食。擦ったくるみをつゆに入れて食べる「くるみ蕎麦」は当店の名物。くるみの香りがあって人気。各店で味を競っている。

三澤屋

 江戸時代保科正之が好んだ高遠そば。ネギを箸代わりに「高遠そば」を食べるのが名物になっている。各店で味を競っている。

水路が天然の冷蔵庫

 街道の両側の用水路には、冷たい水が流れていて、飲み物や野菜などを冷やしている。

湯野上温泉駅

 日本で唯一の茅葺き屋根の駅舎。駅の隣では無料で足湯が楽しめる。

待合室

「待合室」には囲炉裏で火が焚かれ、茅葺き屋根に集まる虫を煙で追い払う役割を果たしている。