幕末の京屋敷跡を訪ねて、古地図片手に市中をめぐり歩いています |
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岡崎神社の招き兎 |
岡崎神社の狛兎 |
地主神社の因幡の白兎 |
平成23年(2011年)、x回目の年男を迎えて、
旅先での思い出を残すホームページを開設。
自分の干支にちなんで、
新年に撮ったうさぎの神社 京都岡崎神社の”うさぎ”を
このホームページのトレードマークにしています。
江戸に各藩の藩邸があったことはよく知られていますが、幕末京都の古地図を広げると、諸大名や公家の屋敷、社寺がいくつも描かれています。
今回の旅は、どうして近世京都に多くの大名屋敷が設けられたのかに関心を持ち、古地図を片手に、わずかに残る石標や石碑、駒形などから、失われゆく幕末の京の面影を求めて京都市内を巡り歩いています。
江戸時代の諸国大名は、江戸とともに京都市中にも藩の出先機関として藩邸を構えていたが、幕末には政局の舞台は江戸ではなく京都になり、西国の大藩を中心に、いち早く京屋敷を構え優秀な人材を送り込んだのです。
その後武家地はどう変わっていったのか、現地を訪ねながらその変化を見ることにする。今ではかつての武家屋敷の面影は殆どなく、町並みも変わっているが、「町並の変化から時代の移り変わり」が見えてくる、古地図や絵図と現在地を重ね合わせながら、今回で、わずかに跡地を示す石標や石碑、駒形がその面影を留めている、70藩程度、約80か所の屋敷跡の候補地周辺の代表的なスポットをカメラに収めることが出来ました。
現在では公共施設や学校、商業ビル、町屋などに変わり、近代的な風景になっていますが、幕末期、二条城を中心にして武家町が形成された「京屋敷」の成り立ちからその変化をはじめ、短冊形の町並みを留めていたり、大名にかかわる町名など今も残る町名が読み取れること、御土居堀に囲まれていたこと(残念ながら造られた豊臣期の絵図がない)など古地図を通して、新たな発見と魅力がいくつも見えてきましたので私の好みにしたがって紹介しておきます。
秀吉の天正の町割りによる碁盤の目状の町並みの地点を指示する「上ル、下ル、東入ル、西入ル」は「京都の通り名数え歌」とともに、道しるべになり、大変役に立っています。 この機会に、古地図を片手に史跡や文化財を巡る「幕末の京屋敷めぐり」を楽しんでみては如何でしょうか。
「幕末の京屋敷」については、区ごとに分け「京屋敷めぐり」で、豊臣期の伏見屋敷は「伏見屋敷めぐり」を公開しています。
幕末期の古地図は いずれも複製で安価に手に入れたものですが、
「文久改正 新撰京絵図」文久2年1862年 「文久改正 新増細身 京絵図大全」文久2年1862年 「元治新撰皇都細見図」元治元年1864年 「京町御絵図細見大成」慶応4年1868年 「京都細見図」慶応4年1868年などを参考にしています。
- あえて読みにくい古地図を片手に、昔どんな姿だったのかに想いを馳せながら古地図と照らし合わせ、今回でおおよそ80の屋敷跡(70藩程度)の推定地を自身の目と足で探し、カメラに収めています
- 古地図が面白いのは、幕末期に何があったのかが詳細に描かれ、 現代につながる情報がたくさん載っている。年代によって若干異なるが慶応図では二条城や諸藩邸(大名の屋敷には住人の名前が入っており、書き出しの方向が家の表口にあたる )は柿色又は白色、御所や公家町は朱色、寺社は赤、町屋は薄墨色、川、堀、池、海などは青色、山や田畑は緑に色分けされ描かれている
- 太い黒線で囲まれているのが、秀吉が作った洛中と洛外を分ける「御土居堀」(土塁と堀)と呼ばれるもの。御土居の東の境界は鴨川、西は紙屋川(西堀川)、北は鷹ケ峰、南は九条で、総延長約23kmの御土居掘に囲まれ、その出入口(関所)は俗にいう京の七口に制限されていた。鞍馬口、粟田口、丹波口などの「京の七口」の地名が残っている
- 御土居掘は、北野天満宮の北西方の紙屋川畔などの一部にわずかに残すのみであるが、現在9か所(北区に6か所、上京区に2か所、中京区に1か所)が文化財保護法によって史跡指定されている 。指定地以外であるが、京都駅の0番のりば(旧1番線ホーム)はこの御土居の上に建設されたと云う
- 江戸時代には、二条通を境界として北を「上京」、南を「下京」と呼んでおり、二条城とその周辺の上京が政治的に重要な場所で武家・公家の館が集中、下京は商・工業者の居住地であった。現在は二条通でなく三条通が「上京」・「下京」の境となっている。千本通りを中心に左京・右京に分かれている
- 鴨川を中心に、東から鴨川沿いの高瀬川、今出川(元・中川)、新西洞院川、堀川、西堀川(紙屋川)、西京極川(天神川)、桂川(大堰川)が描かれており、京の町はまさに川と共に歩み栄えた都。かつて平安京内には12本の人工の河川が流れていたと云う
- 幕末の大名屋敷を持つ大名は74家が描かれているが、そのほとんどが朝廷を担ぐ西国大名の屋敷、その中で幕府に従う東国大名は会津藩をはじめ10家見られる。武家屋敷を地区別にみると、二条城や御所の周辺(中京区)に最も多く、次いで上京区に集中している。3位以降を大きく引き離し、左京区、下京区、伏見区、東山区の順にほぼなっている
- 屋敷の敷地の広さは、尾張屋敷(京大本部地区)の49,000坪余りと最も広く、会津屋敷(京大薬学部)は37,000坪余り(主に練兵場として使用)、若狭屋敷(二条城の南)2万坪、彦根屋敷(高瀬川)10,000坪、薩摩屋敷(二本松)5,800坪、上田屋敷(中央図書館)4,500坪、膳所屋敷(祇園会館)4,300坪、長州屋敷(京都オークラホテル)4,000坪、因州鳥取屋敷(堀川)3,900坪、水戸屋敷(京都ガーデンパレス)1,300坪、京都守護職屋敷(京都府庁)3万坪などが記されている。 因みに、公家屋敷としては最も広かった五摂家の一つ、九条邸は(堺町御門のそば)敷地1万坪、建坪4000坪程度で、大藩の屋敷には及ばない。公家の屋敷の跡地は現在の京都御苑となった
- 京の藩邸は殆どが1藩1邸ですが、幕末に入ると、政治的な活動を行う拠点として、次々と増築、拡大されることになり、尾張藩や薩摩藩、土佐藩、加賀藩、彦根藩、因幡藩、備前藩、筑前藩、津藩、阿波藩などの大藩が、二つ三つの複数の藩邸を持つようになった
- 薩摩藩(二本松、錦小路、伏見)の二本松藩邸は、竜馬が長州藩と薩摩藩を結び付けた秘密会議の場所。若狭小浜藩邸は、京都所司代を多く勤め、一橋慶喜の京都での滞在先を提供したことで知られる
- 高瀬川沿いの木屋町付近には、長州、加賀、対馬、岩国、彦根、土佐藩などの屋敷が集まっており、この地が討幕派志士の拠点になっていたこと、現在も坂本龍馬・中岡慎太郎の遭難の碑など数多くの標柱石が多いのが物語っている
- 河原町の藩邸の周辺には竜馬や桂小五郎の寓居跡の碑、京都御苑周辺に大久保利通の旧邸跡など数多くの碑が建てられている。京都にもゆかりが深い、「維新の三傑」の一人西郷隆盛の屋敷は常識的には薩摩屋敷の近くにあったと考えられるが、標石が見当たらない。 余談ながら、西郷さんの像は郷里の西郷隆盛の像(軍服姿)と上野恩賜公園隆盛の像(なぜ着流し姿なのか、、、ここでは省略)(高村光雲の創作)に建立されているが、西郷さんは大の写真嫌いで顔写真は一枚も残っていないとされているので、六尺豊かな巨漢で容貌魁偉な銅像・肖像画は本人かどうかいまだ謎のままである
- 大名屋敷は幕府の治安対策上から、公家屋敷と違って各所に散在しており、その周囲を町屋で囲まれ街区の中央に作られたものが多い
- 戦国時代には、信長が安土城から水路で坂本に出て京都と往来の際、使われていた近江への主要道「山中越え」(志賀越え・白川越えの別名がある)が、尾張徳川屋敷(京大本部キャンパス)の建設によって分断され、かつての面影が失われている
- 屋敷跡地は学校に転用されているものが多く、当時の小学校(64学区)は単に教育機関だけではなく、行政の末端機構(会所)の役割も果たしていた
- 屋敷跡地には密集している長屋や町屋が多いが、その町屋は「うなぎの寝床」のたとえの通り、間口が狭く奥行きが深い構造になっている。これは間口の広さ、三間=5.4mをもって、一軒役とされ、税金が課せられた為だと云われている
- 四条通以南が下京区だが、通りに面した北側も下京区になっている。これは一本の通りを挟んだ両側の町並みが一つの町になっている「両側町」と呼ばれるもので、この他にもこのような町割りになっている町名が残っている
- 今も旧聚楽第跡(上京区)周辺には、豊臣期の大名屋敷に関わる、稲葉町(稲葉氏)、浮田町(宇喜多秀家)、甲斐守町(黒田長政)、加賀屋町(前田利長)、小寺町(黒田孝高)、左馬松町(加藤嘉明)、信濃町(鍋島勝茂)、主計町(加藤清正)、如水町(黒田孝高)、弾正町(上杉景勝or浅野長政)、丹波屋町(小早川秀秋)、直家町(直江兼続)、森中町(毛利輝元)、長尾町(上杉景勝)、中村町(中村一氏)、長門町(木村重成)、飛騨殿町(蒲生氏郷)、常陸町(木村重茲)、福島町(福島正則)、吉野町(豊臣秀長)、栄町<元は阿波殿町>(蜂須賀家政)、橘町(立花宗茂)、田中町(田中吉政)、中書町(脇坂安治)など、官位や旧苗字などでわかる大名にかかわる町名が数多く残っている
- 禁裏御所周辺には、閑院宮家、伏見宮家、桂宮家、有栖川家、九条家、近衛家、冷泉家、徳大寺家など数多くの公家屋敷が建ち並んでいる。明治維新で多くの公家が東京に移り住む中で、冷泉家は京都に残った
- 現在の仙洞御所内に秀吉が造営したと伝えられる「京都新城」があった。幼い息子秀頼の邸宅、正室北の政所の屋敷として使われたと伝わるが、定かではない
- 寺院街は市街地北部の「寺之内」と鴨川西岸付近の「寺町」の二つの地区に集められた。この寺院街が御土居に次ぐ第二の防衛壁となっていた。それらの地区が寺町と呼ばれ、公式の地名として用いられている
- 地図には表れていないが、金戒光明寺、月真院、淨福寺、西本願寺、壬生寺、新徳禅寺、不動堂明王院など多くの寺が、一時期幕臣や諸藩士の臨時の宿泊所や屯所にされた。その一つ、黒谷の金戒光明寺には会津藩の本陣が置かれた
- 大名に関わる町名のほか郷土産業を見ると、西陣織や陶器、漆器、刀剣鍛冶、京染などの同業者町が形成され、産業に因む、その土地の歴史や文化を感じさせる町名が残っている
- いよいよ維新を迎えると、二条城が京都府の府庁として、各藩の京屋敷は全部取り払われ、学校や官公庁、諸施設などに跡地利用されて、京の町はいち早く開花していくが、その後の近代都市へと変貌を遂げる現在の姿を「京屋敷めぐり」にて、紹介しているのでご覧下さい。
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