
一乗谷城は15世紀半ば頃、一乗城山(標高473m)の山上に朝倉氏によって築かれた山城で、城館と城下町は足羽川の一支流一乗川に沿った南北に細長い谷あいに造られた。
文明3年(1471)朝倉孝景が一乗谷に居城を定め、城下町を造り、5代103年に渡って、越前一国を支配し繁栄した。また、越前は畿内に近いこともあって、京都から公家や文化人が訪れ、当時の一乗谷は京都のような街並みが整備され、越前における文化の中心にもなった。しかし天正元年(1573)、織田信長に攻められて、朝倉氏が滅ぼされた後は、一乗谷の地は荒廃し廃城となる。
一乗谷に広がる朝倉氏遺跡は昭和42年(1967)、本格的な調査が始まり、発掘調査で出てきた遺構に基づき、南北約200mの道路を中心に、町家、武家屋敷(写真左)及び朝倉氏遺跡などを整備、復原し、建物の内部の柱や壁、建具、舘跡、庭園などが忠実に再現されており、国の三重指定(特別史跡<遺跡>・特別名勝<名勝地>・重要文化財<出土品>)を受けている。
余談ながら、信長を最も追い詰めた5代当主義景の越前の地に、3人の歴史上の人物が一時期遭遇しているのでここで記すと、明智光秀は弘治2年(1556)の長良川の戦いで、生国の美濃を追われ越前に逃れ、朝倉義景に仕えていた。一方、京都を追放され、再起を伺っていた足利義昭は永禄9年(1566)、越前の義景を頼り、この地に来ており、この間に、光秀は義昭と接触し「足軽衆」として仕官が叶っている。一方永禄11年(1568)、信長が義昭を越前から美濃に迎えているので、光秀も義昭の奉公衆の一人として出会った可能性が高いと云われている。その後、光秀は信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えたと言うのが定説になっている。そしてまた、光秀が主君信長を殺した「本能寺の変」もあまりにも有名な事件である。
朝倉氏遺跡を訪ねた後は、この越前にあっては永平寺はどうしても欠かせない存在であるので、駆け足で回った。
永平寺は、寛元2年 (1244)に、曹洞宗の開祖・道元禅師(1200〜53)が越前の豪族波多野義重の援助で開いた座禅修行の道場です。三方を山に囲まれた、深山幽谷の地に70余の建物が建ち並び、この中でも特に、山門、仏殿、僧堂、庫院、東司、浴室、法堂の七つのお堂は「七堂伽藍」と呼ばれ、日常の修行に欠かすことができない重要な建物です。荘厳な唐門(同右)は永平寺のシンボルで、皇族や貫首入山のための門で、一般には大晦日の夜のみ解放される。
又、堂内で行われる坐禅や朝課、行鉢、作務は雲水の修行の根本ですが、参拝者は坐禅や写経の体験を通して、心静かに自らと向き合える場所になっている。
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