HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

名所・旧跡めぐり

遺跡めぐり

飛鳥路<万葉・桧隈コース>
を歩く

 

    飛鳥は古代国家成立の舞台。万葉の明日香、蘇我氏ゆかりの地、石の飛鳥と「古代」がぎっしりつまっています。

  今回は、万葉の昔を偲んで、橿原神宮前駅から甘樫丘ー水落遺跡ー飛鳥寺ー飛鳥座神社―山田寺跡ー伝飛鳥板蓋宮跡ー川原寺跡―橘寺ー高松塚古墳―壁画館ー中尾山古墳―文武天皇陵―飛鳥駅へと、今はのどかな田園風景ばかりですが、約15kmの「万葉・桧隈のコース」を巡り歩きます。

  飛鳥の地は、磐余から飛鳥に都を遷して、592年の推古天皇の豊浦宮から始まり、603年小墾田宮(推古天皇)、629年岡本宮(舒明天皇)、643年飛鳥板葺宮(皇極天皇)、656年飛鳥岡本宮(斉明天皇)、672年飛鳥淨御原宮(天武天皇)などの宮殿が築かれ、694年に藤原京に遷都するまでの100余年の間、政治、文化の中心地として歴史が刻まれたところです。

 

甘樫丘からの眺望

 眼下に飛鳥古京(明日香村内)の集落、北側に大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)さらに遠くの生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みが望めます。 かつて蘇我入鹿が父の蝦夷と共に広大な館を作っていたところです。

水落遺跡

 中大兄皇子が斉明6年(660)に我が国で初めて造った水時計台。楼閣建物の1階部分に漏刻(ろうこく)を設置し、2階で時を知らせた。現在は一辺20mの基壇が復元され、20本の柱が建つ。

飛鳥寺

 蘇我馬子の発願で、推古天皇4年(596)に建立された寺。安居院(あんごいん)とも云われ日本最古の寺院の法興寺(元興寺)の跡。堂に飛鳥大仏(重文)を祀る。仏教の受け入れを巡って物部氏と争っていた蘇我馬子が、戦いに勝った記念に創建した寺とされている。

飛鳥坐神社

 飛鳥の集落の東端にあたる鳥形山に鎮まる古い飛鳥の霊地。飛鳥の守護神として信仰を集めている。

 山田寺跡(国特別史跡)

 大化改新時に天智天皇側について、同族蘇我氏を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂の建立したとされている寺。

伝飛鳥板蓋宮跡

 皇極天皇の宮があったところで、皇極4年(645)に起きた大化改新の舞台となった言われている。現在は井戸跡を中心に石敷きの広場などが整備されて、国の史跡に指定され、史跡公園として親しまれている。

川原寺跡

 飛鳥四大寺の一つで、川原にあるので川原寺と呼ばれている。斉明天皇を弔うために建てられた寺院。中門を入ると正面に中金堂を配して、回廊内側の西に金堂、東に塔を建てる。

橘 寺

 聖徳太子の誕生の地といわれる。中門・塔・金堂・講堂と一直線に並ぶ伽藍配置をとる。現在も聖徳太子信仰で法灯を護っている。

高松塚古墳

 直径18m、高さ5mの小型の円墳で7〜8世紀の皇子の墓といわれているが、諸説あって被葬者は特定されていない。壁画は昭和47年(1972)に発見され、その後国宝に指定されている。

壁画館

 古墳内部は保存上公開されていないが、隣接地の壁画館で壁画の原寸模型や石槨内部の模型、副葬品、模造が展示されている。

 壁画館では、東西北の三壁面に、それぞれ「青竜」「白虎」「玄武」が描かれた原寸・原色で再現した壁画は、実に美しくきれいで感動的でした。南壁は盗掘孔が掘られて崩れていますが、中国古代の四神の思想に基づき「朱雀」が描かれていたのではと云われている。カビの発生などで劣化した壁画は、2007年から修復中。

西壁女子群像

 男子4人、女子4人各一組の群像が、東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれている。これは、飛鳥美人として知られる「西壁女子群像」です。

写真は壁画館パンフより

中尾山古墳

 高松塚古墳の北側にある八角形墳の古墳。文武天皇陵ではないかという説が有力だが、宮内庁は別の古墳を文武天皇の墓と指定しているので明らかでない。

文武天皇陵

 陵名を桧隈安古岡上陵と称する。文武天皇は、追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707年)6月に崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」にみられる。

飛鳥川

 今では川幅が狭くなり水量も少なくなっているが、万葉集に多く詠まれ歴史に刻まれた飛鳥川。多武峰から流れる冬野川と栢森の奥に発する稲淵川が石舞台近くで合流、明日香村の中を流れて大和川に注いでいる。