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函館元町・ベイエリアめぐり

 

 安政元年(1854)、日米和親条約が締結され、箱館は下田とともに開港場となり、ペリーは視察のため箱館に入った。開港以来、多くの外国船が入港し、早くから西洋文明と接触していたため、国際貿易港として発展する礎となった。

 これに伴い、「元町地区」には箱館山麓(現在の元町公園)に奉行所が置かれ、洋風・和風・和洋折衷の建築物や宗派の異なる教会が建ち並び、広くまっすぐに伸びる坂道など函館ならではの風景が広がっている。函館湾に沿う「ベイエリア地区」は赤レンガ倉庫群や歴史的建造物など、交易の街として賑わった往時の面影を残している。
もう一つ訪ねたいのが、啄木が愛した大森浜と青柳町で、啄木小公園と函館公園には歌碑が建っている。

 函館山の山頂(334m)の高さは東京タワーとほぼ同じ、頂上からの眺めは、香港、ナポリと並んで、世界三大夜景とも称され、展望台からの景色は必見です。また市民の台所として古くから親しまれている函館朝市は観光名所としても有名です。

 ひと足のばして函館駅から大沼へ向かった。大沼公園は新三景にも選ばれた景勝地で周囲約24km、大小126の島があり、季節ごとの自然の変化が美しい。

 

 元町エリア

高龍寺

 函館に現存する寺院としては最古の歴史をを有し、箱館開港当初には実行寺とともにロシア領事館関係者の仮宿舎となり、箱館戦争時には箱館病院の分院として使われた。現在地には明治12年(1879)に移転した。

傷心惨目の碑(高龍寺内)

 この仮病院に乱入した官軍が傷病者を惨殺し寺に放火した。その時犠牲になった会津遊撃隊士を悼み、明治13年(1880)旧会津藩士の有志が、この碑を建立した。

称名寺

 イギリスとフランスの領事館としても利用され、市内では高龍寺に次いで古い寺院。境内には高田屋嘉兵衛一族の墓の他、北海道最古の石碑「貞治の碑」(貞治6年(1367))2月の銘がある板碑が保存されている。

土方歳三の供養碑(称名寺内)

 昭和47年(1972)に建てられた土方歳三と新撰組4名の供養碑がある。東京都日野市の金剛寺過去帳に、称名寺に土方歳三の供養碑があると書かれているが、碑は見つからなかったので新たに供養碑を建てたもの。

実行寺

 ペリー来航時には、写真スタジオとして利用され、その後ロシア領事館としても使われた歴史を持つ寺院。現在地には明治14年(1881)に移転した。

外国人墓地

 安政元年(1854)ペリー艦隊来航の時、同行していた2人の水兵が亡くなった際、ここを埋葬場所に提供したのが始まりで、プロテスタント墓地、カトリック墓地、ロシア人墓地、中国人墓地など、さままざまな宗教、国の人々が眠っている。

弁天岬台場跡

 箱館開港と同時に箱館警備のため、文久3年(1863)に完成した不等辺六角形の台場。五稜郭と同じく武田斐三? が設計し、箱館戦争の際は新撰組などが守備していた。強固な台場だったが、弾薬と食糧が尽きて明治2年(1869)5月15日降伏した。

新撰組最後の地

 箱館戦争のとき、旧幕府軍の一隊として、ここにあった弁天台場を守っていた新選組百余名は、明治2年(1869)新政府軍の猛攻撃で、5月15日降伏した。ここが最後の地である。

ペリー提督来航記念碑 

 安政元年(1854)、5隻の艦船を率いて来港したアメリカ海軍提督M.C.ペリーの姿を忠実に再現した銅像。

カトリック元町教会

 安政6年(1859)、フランスの宣教師メルメ・デ・カションが仮聖堂を建立したのが始まり。現在のゴシック様式の建物は大正13年に完成。

函館聖ヨハネ教会

 明治7年(1874)、イギリスの宣教師デニングにより伝導。現在の建物は、昭和54年に改築。

函館ハリストス正教会

 江戸末期、ロシア主教ニコライによって日本で初めてロシア正教が伝導され、ロシアの領事館及び礼拝堂として建てられたビザンチン様式の教会。国の重要文化財。

旧イギリス領事館(開港記念館)

 大正2年(1913)、イギリス政府上海工事局の設計で現在の場所に建てられた。いまは開港記念館として開港にかかわる歴史を展示している。

元町公園

 明治から昭和25年まで、箱館奉行所や開拓使がおかれ、北海道・道南の行政の中心だった場所。

 

箱館奉行所跡

  安政元年(1854)の開港時に現在の元町公園に置かれた奉行所の跡。元治元年(1864)防衛上の理由で、五稜郭へ移転、復元されている。

旧函館区公会堂

 明治43年(1910)、豪商・相馬哲平らの寄付を得て、当時の洋風建築の粋を集めて造られたコロニアル・スタイルの木造建築。ブルーとイエローの色調の美しい建物。国指定重要文化財。

 

函館写真歴史館(旧北海道庁函館支庁庁舎)

 復元した旧北海道庁函館支庁庁舎のルネッサンス風の洋館を函館写真歴史館として利用している。 

旧開拓使書籍庫 

 明治13年(1880)建造のレンガ造りで瓦葺2階建ての書籍用書庫。函館大火を生き残った、開拓使時代の貴重な建築物。

市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店) 

 明治13年(1880)に初代渡辺熊四郎が建てた旧金森洋物店。明治時代の生活用品などを展示している。

函館市地域交流まちづくりセンター(旧丸井今井百貨店)

 元は大正12年(1923)創業の百貨店「丸井今井」の函館支店だった建物。 百貨店の移転後、函館市末広分庁舎として使われた時期を経て、今は「函館市地域交流まちづくりセンター」として、市民活動や観光案内などに利用されている。 

亀井勝一郎生誕之地碑 

 函館市出身の思想家・文芸評論家の亀井勝一郎氏の生誕の地。亀井勝一郎氏の生家周辺を描写した東海の小島の思い出の一部が碑に彫られている。後方の建物は東本願寺函館別院。

高橋掬太郎歌碑 

 この碑は、高橋掬太郎が作詞し、函館で生まれた「酒は涙か溜息か・・・」を永く記念するため、昭和36年(1961年)有志により同町内にあった温泉敷地内に建てられたが、平成10年(1998年)4月に現在の場所に移設されたもので、碑文は掬太郎の直筆である。高橋掬太郎とは、大正11年に函館日日新聞社に入社し勤務する傍ら、詩や小説、脚本などを手がけていた人物。

高田屋嘉兵衛銅像

 高田屋嘉兵衛の功績をたたえるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33年(1958)に建立された銅像。この姿は、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロブニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時をイメージして造られた。

二十間坂通 

 明治12年(1879)の大火後、防火帯として造成された坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。函館の坂の中で最も長い坂。


函館公園 

 明治12年(1879)に開園した北海道初の和洋式の都市公園。イギリス領事ユースデン夫妻の提唱に、地元の豪商渡辺熊四郎らが資金提供をし、造成された。

啄木歌碑 

 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 「一握の砂」より  啄木の滞在期間は4カ月余りだったが、当地に愛着をもち、この歌を詠んでいる。公園内に歌碑が建てられている。

 青柳町には故郷から呼び寄せ、家族とともに暮らした啄木の居宅跡がある。

市立函館博物館 

 広大な園内に、1966年開館。民族、考古、美術などの資料を収蔵、展示している博物館。

旧函館博物館?号館 

 広大な園内に、1878年の建築で、現存する我が国最古の博物館であり、玄関ポーチ、軒先などに、文明開化期の洋風建築の技法を伝えている。2号館と並び立っている。

遊園地「こどものくに」内の日本最古の観覧車 

 昭和25年(1950)に北海道初として作られ、現役で動いている最古の観覧車。


函館山山頂からの夕日 

 天候に恵まれ、夕日から日没までの眺めは、とくに素晴らしい光景です。

函館山

伊能忠敬記念碑 

 頂上展望台には、伊能忠敬の記念銘板があり、寛政12年(1800)5月28日の日記の一部「・・・・箱館山に登て所々の方位を測 夜も晴 測量・・・・」が刻まれている。忠敬はここから東蝦夷地沿岸の測量に着手し、我が国最初の実測地図を作成した。


 ベイエリア

ペリー会見所跡

 安政元年(1854)、ペリー一行と松前藩との会談は山田寿兵衛宅で行われ、箱館での遊歩範囲の取り決めなどが話し合われた。

太刀川家住宅店舗

 明治34年(1901)、米穀店を開く一方で回漕業を経営した太刀川善吉により建築されたレンガ壁と漆喰で塗り込めた防火建築。現在はカフェとして活用されている。国の重要文化財。

沖の口番所跡(現函館市臨海研究所)

 松前藩が松前、江差、箱館に設置した舟の入港時徴収や、上陸する人の取り締まりを行ったところ。箱館戦争時には箱館市中を警備する新撰組の拠点となった。ここには箱館郵便役所跡の石碑もある。

新島襄海外渡航の地碑

 新島襄は「意を決して福音の自由に宣伝せらるる、国土に赴かん」と考え、元治元年(1864)箱館に来た。同年ここから国禁を犯し、アメリカへの渡航に成功、10年後に無事帰国した。上海で作った漢詩が自筆の碑文として刻まれている。

新島襄ブロンズ像

元治元年(1864)箱館大町築島の波止場から1隻の小舟で沖に出た時の新島襄の服装が分かる。

緑の島

 緑の島は大町地区にある函館港のシンボル緑地で、散策や遠足、釣りなどのほかスポーツやイベントの会場としても利用されている。実はこの8ヘクタールの島は、中央埠頭、北埠頭、万代埠頭造成に伴う港内浚渫の結果出る土砂で造成された。

金森赤レンガ倉庫(金森洋物店)

 明治40年(1907)の大火後、防火意識の向上により、明治42年(1909)イギリス積みによるレンガ造りで建築された。現在は、ビヤホールやレストラン、ショッピングモールとして再利用されている。この付近に、明治5年(1872)、日本で最初の観測機器を設置し、気象観測を始めた。

運 河

 海からの風を感じながら散策が楽しめる広場。観光スポットとなっている。

北方民俗資料館(旧日本銀行)

 大正15年(1926)に建てられた日本銀行函館支店の建物。アイヌ民族やアリュート族の貴重な資料・民具などを展示している。

相馬株式会社社屋

 初代相馬哲平が文久3年(1863)に米穀商「相馬商店」として開業。現在の社屋は今も使われている、大正2年(1913)築のルネサンス風事務所建屋。伝統的建造物。

箱館運上所跡

海上自衛隊函館基地隊本部に、安政6年(1859)の箱館開港に伴い設けられ、明治6年(1873)に函館税関と改称された。

北海道第一歩の地碑(旧桟橋)

 明治維新後、北海道の入口となった函館に本州の人々が上陸し、第一歩を記した場所。 錨と熊をモチーフにした彫刻は、昭和43年(1968)開道100年を記念して建立された。

函館市文学館(旧第一銀行)

 旧第一銀行函館支店の建物で、平成5年(1993)4月に文学館として開館、石川啄木や函館ゆかりの作家の残した原稿や作品などを展示している。

函館市電

 平成4年(1992)、市制施行70周年記念事業として、復元されたチンチン電車は「箱館ハイカラ號」の愛称で函館の町を再び走り始めた。

函館朝市

 戦後の函館周辺の農家が野菜や果物を立ち売りしていたことから始まった。今では旬の魚や野菜、果物、乾物、菓子まで約300軒もの店舗がひしめきあっている。

いか釣堀

 活いかの釣堀体験は(6:00〜13:30頃)えきに市場の名物で、釣ったいかはその場で食べることができる。イカ製品の種類と生産量は全国一位を誇る。

函館市観光部のパンフレットなどより


 大森浜

 

啄木小公園

 「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや」「一握の砂」より

 大森浜を望む、啄木小公園に歌碑と座像がある。座像は北海道出身の彫刻家本郷新氏の作。

啄木小公園

西条八十が啄木に捧げた詩碑 

「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒

立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる」 捧啄木   西條八十

 詩人西条八十が昭和33年、来函の際に作った啄木に捧げる歌碑が建っている。

土方・啄木浪漫館

 津軽海峡を見渡せる大森浜沿い、「啄木小公園」に隣接して建つ記念館。土方歳三(1F)・石川啄木(2F)を中心に、幕末に活躍した人々の貴重な資料や収蔵品を多数展示している。 

大森浜と砂浜

 津軽海峡に面した大森浜は啄木が最も好んだ場所。歌の題材にもなっている。


 ひと足のばして 大沼公園

 大沼は駒ヶ岳の噴火により、折戸川がせき止められてできた周囲約24kmの湖で、大小126の島があり、駒ヶ岳をバックにした景色は美しく、道南地方で随一の景勝地です。大沼と小沼湖畔には、4つの散策路があり、時間や目的に合わせて散策を楽しむことが出来る。

 

駒ヶ岳と大沼

 剣が峰(1131m)、砂原岳(1113m)、隅田盛(892m)の三山で構成。度重なる火山活動により山頂が吹き飛ばされ、現在の形状になった。活火山のため、現在登山は制限されている。

「千の風になって」モニュメント

 作家の新井満さんの当地での名曲「千の風になって」の誕生を記念して設置されたモニュメント(手前の小さなプレート)。

遊覧船

 景色を楽しみながら島めぐり一周ができる。 

睡蓮と橋

 湖面に浮かぶ睡蓮の花と、遠方に島をつなぐ橋、美しい景観が楽しめる。

虚子の径

 かつてここにあった旅館に虚子が泊まって、小句会を催し湖畔を逍遥したという。

新三景の碑

 大正4年、三保の松原(静岡県)、耶麻渓(大分県)とともに大沼が日本新三景に入選したことを記念して建てられた碑。