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今井砦
今井街道沿いを歩く

 

  今井城(横浜市保土ヶ谷区)は鎌倉時代から室町時代の初期にかけて、標高87mの尾根上に構築された典型的な山城である。南北300m、東西200mの規模で、南側と北側と中腹の平地部分に曲輪が形づくられた自然の地の利を生かした城です。一説には木曽義仲(源義仲)の四天王の一人、今井兼平の居城跡であると伝えられているが、定かではない。戦国期には北条氏の勢力下の城であり、城代として清水氏が置かれ、歴代領主小笠原氏、谷氏、小幡氏に仕えたと伝わる。

  鎌倉幕府を守るために、鎌倉道の途中に今井城という砦が作られたのではないかと言う。源頼朝からの命令「いざ、鎌倉」があれば、直ちに鎌倉へ駆けつける「御恩と奉公」の約束があった。この時、御家人が鎌倉に入るために作られた道が「鎌倉道」と呼ぶ。3本の古道(上の道・中の道・下の道)の内、「鎌倉中の道」は鶴ヶ峰(旭区)〜和田町(保土ヶ谷区)〜市沢〜子神社下〜今井川の「鎌倉橋」を渡り、法泉下〜境木町〜下永谷市民の森(港南区)を経て鎌倉入りをする道で、これらの道筋には武士の舘や神社、寺院、高札場などが建てられた。

  ついでながら、1205年(元久2)、鎌倉幕府の有力御家人である畠山重忠が本拠の武蔵も遙か北方の菅谷城(埼玉県)から、この鎌倉中の道を通り、鶴ヶ峰(横浜市旭区)にて、北条氏方に討たれ、42才の生涯を閉じた。

  さらに、司馬遼太郎は街道をゆく42の三浦半島記の中で、「この元久2年(1205)6月22日の重忠の滅亡によって、頼朝以来の鎌倉幕府が、北条氏の私物へと変質したといえる、と述べ、鎌倉の世の畠山重忠のことを回想している。

 

登城道

石段を登り鳥居(惜しくも倒れて、はしに置かれたままになっている)をくぐると今井城址跡にたどりつく。

今井城の縄張り図

 金剛寺の裏手の高台を中心に自然の地の利を生かした城づくりになっている。 

城山稲荷

 城の南のはしには今井城の守り神であった城山稲荷が祀られている。嘉永2年(1304)の板碑(中央)があり、県下で最古の部類に属すると云われている。右側に城址石碑が設置されている。

板 碑

 鎌倉時代に盛んに造られた梵字の書かれた石碑で、歴史的に価値のある史跡。

城山稲荷付近の堀跡

 城山稲荷付近の竹藪の奥に堀切らしき遺構が見える。(この先には入れない)

古 銭

 今回地元の方の案内で見学、貴重な説明を頂いた。城山稲荷の近くに宝が埋められているという清水家先祖からの言い伝えに従って、昭和30年10月のある日実際に掘ってみたところ出土した「常滑焼」の大甕の中に古銭が400キログラム、しかも出土した古銭は江戸時代のものでなく、永楽通宝を始めとした中国の古い通貨である南宋銭、元銭、明銭など鎌倉時代から室町時代に使用された渡来銭であると云われている。清水家は今井町でも由緒ある家で、江戸時代には名主、明治になってからは戸長を務めた家柄。

大 甕

 出土した「常滑焼」の大甕。埋蔵金の一部とその甕は今も清水家に保存されている。

美 立(御 舘)

 今井城は旧式な城であったために、北西の丘(今の第2公園のあたり)に館を建て移り住んでいたことからその地を「御館」と呼んでいた。今は相鉄バス停の美立橋という名に残っている。

今井天満宮

 子神社の末社でご祭神は「菅原道真」。江戸時代にはこの地に寺小屋があり、地元の多くの子供たちが勉学に励んだことから、天満宮の境内は「今井町の文化発祥の地」と称えられている。

今井小学校誕生の地

 また、今井小学校誕生の地でもある。4年生による学校誕生の説明文が掲示されている。

田嶋稲荷

 創建は定かではないが、稲の豊穣を司り、五穀五菜を守る神社。古くから今井の人々の商売繁盛、家内安全の神様として、現在も土地の人々の間で信仰されている。

金剛寺

 天正19年(1591)快儀法印によって開かれた高野山真言宗長谷山地蔵院金剛寺と呼ぶ。境内には江戸時代の今井村領主有田氏3代(徳川家康の家臣)の墓がある。

子神社

 ご祭神は大国主命、また大黒様と呼ばれ、「因幡の白ウサギ」で知られる神社。今井城の大手門(正門)に位置するところにあり、今井城の城主であった有田氏ゆかりの神社である。

湯殿山信仰の碑

 湯殿山は羽黒山・月山と共に「出羽三山」といわれ、昔から人々の信仰の山として有名です。保土ケ谷は三山請が盛んであったようで,区内には5基の供養塔がある。

今井川の源流

神奈川県立商工高校付近の環状2号線下の暗渠に、周辺の山々から流れる雨水などが源流になっている。岩間町で帷子川に合流する。

鎌倉橋

「鎌倉中の道」が通る今井川にかかっていた「鎌倉橋」という名の橋が今も残っている。この近くに首塚があったが、今は潰されなくなっている。

今井の丘公園

広場やトイレ、休憩所などの施設がよく整った農園付公園です。左奥の丘陵に今井城があったという。

農 園

 地元の方が農園体験を通して自然に親しんでいる。


 ひと足のばして

畠山重忠古戦場跡

 源頼朝に従い、有力御家人の一人となる。のち北条氏と対立し、1205年(元久2)、鎌倉中の道を通り、武蔵鶴ヶ峰にて、北条氏方に討たれ戦死した。二俣川や鶴ヶ峰付近には畠山重忠ゆかりの記念碑などが数カ所建てられている。

今井川沿いの松並木

 2005年度の「ヨコハマ市民まち普請事業」と公共事業により、保土ヶ谷宿(保土ケ谷町、瀬戸ヶ谷町エリア)が置かれた今井川沿いに、旧東海道の象徴である松並木が復元された。元々この辺りも川の流れは蛇行していたが、水害を防ぐため、流路を付け替え一直線に伸びる人工的な水路にしている。