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石垣山一夜城

 天正18年(1590)、豊臣秀吉は後北条氏の本拠小田原城攻略のために、小田原城天守の西方約3km、標高257mのもと笠懸山、松山などと呼ばれた石垣山に、東西の最大幅は275m、南北の延長は約550mの関東初となる総石垣の城を築いた。

 築城工事は延べ約4万人を動員し工期約80日間、昼夜兼行で山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを作り、完成と同時に、周囲の山林を伐採したため、一夜にして新しい城が出現したので一夜城と呼ばれている。

 石積みは小田原城とは異なり、近江の穴太衆による自然石をほとんど加工することなく組み合わせる野面積といわれるもので、南曲輪と井戸曲輪の石垣は度重なる震災にも耐えて、その面影をよく留めており、現在は、石垣山一夜城歴史公園として整備され一般に公開されている。

 秀吉はこの石垣山城で小田原城の兵糧が尽きるのを待ち、その間大阪から側室の淀殿を呼んだり千利休や能役者などを招いたのもこのときである。しかし後北条氏が降伏後、秀吉がこの一夜城に立ち寄ることはなかった。

 

旧城道東登口

 この城道は箱根湯本から早川方面に続く関白道から石垣山城に登城する道です。

本城曲輪(本丸跡) 

 標高255〜257m、南北約90m、東西75〜90m、面積約7,500?で最も広い面積を有する曲輪。南西部には天守台がある。

天守台跡 

 標高261.5mで、当城中最も高い位置にある。古地図によると、四角い平面形で、周囲には石垣が巡っている。瓦屋根の櫓が建っていたようです。 

一夜城水準点

 天守台上に「史跡石垣山一夜城跡水準点256.046m」の長方形の金属プレートが埋め込まれている。 

本丸展望台から望んだ小田原城 

小田原城下から足柄平野、相模湾、三浦半島、房総半島に至るまで一望できる。 

馬屋曲輪(二の丸跡) 

 本城曲輪と並んで最も広い曲輪です。曲輪の中心部と北へ長方形に張り出した部分と腰曲輪の3つの区域からなっている。『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているが伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。

馬屋曲輪石垣

 この石垣は、比較的良好に築城当時の姿を保ち、延長67m、高さ最大約6m、勾配約60度となっている。

馬屋曲輪櫓台跡

他の曲輪にも櫓台跡が確認されている。 

西曲輪跡

 本城曲輪と天守台の背後を守る曲輪で、出入り口は現在東端に1ヶ所確認されるだけです。曲輪の南側には大堀切りがあり、それを望む曲輪南端には櫓台がある。

西曲輪の門跡

 出入れ口である門跡の石積みが残っている。

南曲輪跡 

 東の城道が屈曲した位置に面して袋状に造られており、城門防衛の兵溜りとして機能していたと考えられる。面積は約1,200?で、城道に面して櫓台が設けられている。

南曲輪下の石垣(角石)

 曲輪の北、東、南の各面には、石垣が築かれていた。

南曲輪下の石垣(野面積み)

 穴太流の野面石積みで、桃山時代の面影をよく残している。

井戸曲輪と石垣

 谷地形になる沢を塞ぎ止めるように周囲に石垣を積み上げて、その底に井戸を造ったものです。周囲に残る石垣は最もよく残っている場所です。全国でも他に例のない曲輪です。

城 道 

  南曲輪跡へ向かう狭い登り道。かなり崩壊している。

大堀切 

 堀の肩幅は50m、底幅25m、深さ10mの大きな空堀です。後方は南曲輪の迫力のある石垣です。


「石垣山に参陣した武将たち」の説明板 

 豊臣秀吉、淀君、千利休、羽柴秀次、徳川家康、伊達政宗、宇喜多秀家、堀秀政、 以上8人の説明板が各所に設置されている。

海蔵寺

 海蔵寺は、嘉吉元年(1441)に小田原城主の大森氏によって建立された曹洞宗の寺院で、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めに参戦し、陣中で病没した堀秀政が埋葬されている。

早川石丁場群関白白沢支群

 刻印・銘文のある石垣用石材

 切出された石の中には、正面をなす部分に刻印が彫られているものがある。刻印は大名ごとの違いを表わしていると思われるが、詳しいことはわかっていない。早川石丁場群関白沢支群では、「八」「○に十」「○に寸」が確認されている。

石曳道

 切出した石を運び降ろすための石曳道(いしびきみち)と考えられる遺構です。幅は3〜4mで、底部には幅30?ほどの溝が2本掘られていた。溝と溝の間は約1.5mで、溝の中には小礫や切石を割った際に出た破片がたくさん詰まっていた。地車(じぐるま)と呼ばれる荷車がわだちにはまらないよう舗装していたと思われる。切出された石は「石舟」と呼ばれる船で江戸まで運ばれた。  かながわ考古資料館より