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磐余の道を歩く

 

 飛鳥地方には多くの都が集中し、古代史の重要な舞台になっています。今回は大化改新の歴史の道「磐余(いわれ)の道」を辿ります 。

 この道は桜井から飛鳥を経て紀州へと続く古代の道で、桜井駅をスタートし、県道15号線を南に向かい、若櫻神社〜土舞台〜安倍文殊院〜安倍寺跡〜山田寺跡〜ひと足のばして明日香路へと、「磐余の道」を半日コースで約9km、のぞかな田園風景を楽しみながらの史跡巡りになりました。写真は山田寺跡へ入る道端に建てられた井上靖氏揮毫による「磐余道」の道標です。

 磐余は古代政治の中心地で、都が藤原京に特定される以前の古墳時代(4〜6世紀頃)には、代ごとに「磐余」と付く天皇の宮が移り、この地・桜井市に5か所あったと云われています。次に挙げる宮名は日本書紀の記述、場所は推定地ですが、いずれも桜井市域にあたる地名と考えられています。

   

  14代  神功皇后  磐余若桜宮    桜井市谷又は池之内付近

  17代  履忠天皇  磐余稚桜宮    桜井市谷又は池之内付近

  22代  清寧天皇  磐余甕栗宮    桜井市池之内付近

  26代  継体天皇  磐余玉穂宮    桜井市池之内付近

  31代  用明天皇  磐余池辺甕槻宮  桜井市谷又は池之内付近

 

 

 若櫻神社

 「延喜式」に記されている式内社の一つ。祭神は、第8代孝元天皇の長子・大彦命の後裔である伊波我加利(いはがかり)命です。もう一つ同じ式内社とされる桜井市池之内の「稚桜神社」があり、どちらも神功・履中の「磐余若桜宮・稚桜宮」の推定地となっている。

  土舞台

  聖徳太子が我が国で最初に国立の演劇研究所を置いたところで”芸能発祥の地”として伝えられているところです。  日本書紀の推古天皇20年、時の摂政聖徳太子に、我が国に帰化した百済人味摩之が、「呉に学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げた。そこで太子は「桜井」にて我が国の少年を集めて、この伎楽の舞を習わしめたと記されている。

  安倍文殊院

 日本三文殊の一つで、大化改新時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂の氏寺として建立された寺。本尊は文殊菩薩、四人の侍者を従えている。本尊の総高は7mと最大級。快慶の作。

  国史跡・安倍寺跡

 大化改新時に左大臣として活躍した安倍倉梯麻呂が創建した寺で、安倍文殊院の前身にあたる寺。

  国特別史跡・山田寺跡

大化改新時に天智天皇側について、同族蘇我氏を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂の建立したとされている寺。


ここから明日香村へ

  飛鳥資料館

飛鳥時代や飛鳥地方の歴史と文化を分かりやすく解説した資料館。水落遺跡で見つかった水時計遺構、藤原京全景の復元模型や高松塚古墳の出土品などを展示。

  亀 石

 資料館の庭には亀石や猿石、人頭石、小川を渡ると石人像、酒船石、須弥山石など、飛鳥の石造物をレプリカで展示している。

 長さ4.2mの巨大な花崗岩に、亀に似た顔が彫刻されている。この亀石は川原寺跡の一部として国の史跡に指定されている。

  猿 石

 吉備姫王墓内にある4体の石造物。男・女・僧・山王権現と呼ばれるが、その性格は不明。

  石舞台古墳

 この石舞台古墳は、昭和8年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることがわかりました。被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓であるとの説が最も有力視されています。

石室入口

 奥の部屋(玄室)は横穴式石室と呼ばれ、石棺を収容するための穴が横に開かれている。

 復元石棺

 発掘調査では石棺は発見出来ませんでしたが、石質からは平に加工した凝灰岩の破片が見つかり、発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元したものです。

 甘樫丘からの眺望

 眼下に飛鳥古京(明日香村内)の集落、北側に大和三山とその中央に位置する藤原京(橿原市内)さらに遠くの生駒山、二上山、葛城山、金剛山系の山並みが望めます。

  水落遺跡

 中大兄皇子が我が国で初めて造った水時計台。楼閣建物の1階部分に漏刻を設置し、2階で時を知らせた。

  川原寺跡

 斉明天皇を弔うために建てられた寺院。中門を入ると正面に中金堂を配して、回廊内側の西に金堂、東に塔を建てる。

  橘 寺

 聖徳太子誕生地といわれる。中門・塔・金堂・講堂と一直線に並ぶ伽藍配置をとる。現在も聖徳太子信仰で法灯を護っている。