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出 雲 大 社 と 至 宝

 

 

 出雲大社の正門からは神域、参道を下り、美しい松並木を通って、本殿(写真左)に向かいます。出雲大社は60年ぶりとなる「平成の大遷宮」(平成20年4月〜平成28年3月)は平成25年5月に本殿の修造工事が完了し、本殿に大国主大神がお還りになる本殿遷座祭が執り行われました。

 オオクニヌシの国譲りに伴って造営されたといわれる出雲大社は、平成12年(2000)に境内から、杉の丸太を3本束ねた巨大な宇豆柱が出土したことが話題となりました。また神話の国・古代出雲は、弥生時代からこの地が青銅器文化圏であったことが知られています。

 出雲の魅力は、荘厳な寺院建築ばかりではありません。出雲のことを深く知るには博物館、隣接して建つ県立古代出雲歴史博物館では、館内に入ると、中央ロビーに展示されている宇豆柱の大きさに驚かされるとともに、本殿の復元模型や荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅剣、銅矛、銅鐸(同右)に「出雲国風土記」の世界などが展示、紹介されており、「古事記」の神話や伝承に触れる心豊かな旅になりました。

 出雲大社

正 門

「せいどまり」といい、ここから神域となります。

正門から本殿までは下り参道を通って400mほどになります。

下り参道 

 「せいどまり」から参道を下り、美しい松並木が続く、全国でも珍しい「下り参道」です。

野見宿禰神社

 日本神話に出てくる相撲の祖、野見宿禰を祀る神社。創建は平成25年10月。

皇后陛下の御歌の歌碑

 「国譲り 祀られましし 大神の奇しき御業を 偲びて止まず」この歌は、平成15年(2003)10月3日に皇后陛下がご参拝された折、「出雲大社に詣でて」と題され、大国主大神が皇室のご先祖に国土を奉還された「国譲り神話」を讃えて詠まれたものです。

写真の左側に写っている銅像は、神話に登場する大国主大神と「因幡の白兎」の像です。 神話「因幡の白兎」は、大国主命が八上姫を訪ねる旅のお話。

拝 殿 

 現在の拝殿は、昭和34年(1959)に総檜造りで再建されたものです。銅鳥居の下の中央に立つと、拝殿が左にずれていることが分かります。これはご本殿の御屋根を拝することができるようにと配慮されているからです。2礼4拍手1礼で参拝します。

十九社

 旧暦10月の神在月(全国的には神無月)に全国から八百万の神々が集まり、7日間の神議りの間、ここに宿泊されます。東西とも十九の扉があり、この滞在中の期間は全ての扉が開かれる。

本 殿

 大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式です。現在の本殿は高さ24mで延亨元年(1744)に3年半の歳月をかけて完成しました。古くは倍の48mの本殿が建っていました。出雲大社では、60年に一度、厚さ1mの檜皮葺き(ヒノキの皮)の屋根を葺き替えて御遷宮を行います。現在の本殿では4回目で、昭和28年(1953)以来の遷宮になる。

神楽殿

 建物は昭和56年(1981)の造営。祭典、祈願、結婚式などが行われます。正面には日本最大級の大注連縄がある。

千家国造家

 「古事記」「日本書紀」にある高天原から大国主神の下に遣わされた神「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とする。南北朝時代に千家・北島両家に分家し、月交代で杵築(出雲)大社の祭祀(さいし)を執った。明治政府が第80代出雲国造の千家尊癖たかとみ)氏を出雲大社大宮司に任命してからは、千家国造家が宮司を務める。現在の千家尊祐宮司は第84代出雲国造。

北島国造家四脚門

 寛文4年(1664)の屋敷替えの際、本殿の後方にあった北島国造家屋敷、四脚門を境内拡張のため、現在の地に移築されたもので、四脚門は出雲大社関係の建築物の中では最古のものです。

パンフレットより


 博物館

古代出雲歴史博物館

 荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡など島根県内から出土した銅剣・銅矛や出雲大社、出雲国風土記について展示されている。

宇豆柱(うずばしら)

 平成12年(2000)に出雲大社境内から出土した柱材。

スギの大材3本を合わせて1つの柱にして、直径3メートルの柱9本を作り、その巨大な9本の柱が神殿を支える構造になっている。9か所の柱のうち、正面中央の本殿を支える棟持ち柱が宇豆柱と呼ばれる。

古代出雲大社本殿復元模型

 出雲大社の宮司を務める千家家に伝わる「金輪御造営差図」により、総高を16丈(約48m)、長い階段・引橋1町(109m)として復元している。スケールは実寸の1/10のサイズである。

5種類の本殿復元模型

 5人の建築史の研究者が独自の文献史・資料により制作した高い大社から低い大社までの五通りの鎌倉時代の本殿復元模型が並んでいる。

千木と勝男木

 昭和の遷宮まで屋根を飾っていた千木と勝男木。その大きさは千木の長さ8.3メートル、重さ500kg、勝男木は長さ5.45メートル、重さ700kgという巨大なものです。岩手の山から切り出してきた松の木が使われている。

古代のくらし

 「出雲国風土記」は日本に現存する5つの風土記で唯一完本に近いものです。この風土記を手掛かりに、当時の”くらし”を紹介している。

銅 鐸

 加茂岩倉遺跡から平成8年(1996)銅鐸39個、荒神谷遺跡から昭和59年(1984)6個発見されている。

同遺跡の以前の銅鐸最多の遺跡は滋賀県野洲市の小篠原の24個であったが、同遺跡の出土数はそれをしのぐものである。

銅剣と銅矛

 荒神谷遺跡から、昭和59年(1984)、銅剣358本、銅矛16本が出土している。これほどまでに一括出土した例はこれまでにはなかった。

銅 鏡

 神原神社古墳から出土。「景初三年」を含む41文字が鋳出された三角縁神獣鏡です。景初3年(239)は、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に使いを送り、銅鏡100枚を賜ったとされることが知られている。

鉄のかたまり

 平安・鎌倉時代の製鉄遺物。「たたら製鉄」でできた鉄のかたまりは、分割されて歩鋼(不純物が多く、不均質な鋼)で包丁鉄となります。これらは鍛冶場や生活用品や農具に加工された。