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宮沢賢治ゆかりの地めぐり

 

 宮澤賢治は岩手県花巻市が生んだ日本を代表する詩人・童話作家。理想と現実の狭間でもがき苦しみながら、数々の作品を生み出した。 

 短い人生を駆け抜けた宮澤賢治の足跡をたどると、賢治は明治29年(1896)現・花巻市豊沢町で質・古着商を営む父政次郎と母イチの長男として生まれる。賢治は小学校時代から石や昆虫の採集、標本づくりに熱中、家族からは「石っこ賢さん」などとあだ名されるようになった。中学に進学してからは、岩手山や南昌山などに何度も登り、又小岩井農場を歩いては、さまざまな鉱物や岩石を採集したり、宇宙の星たちを観察していたとされる。

 親元を離れ明治42年(1909)盛岡中学(現・盛岡一高)に入学する。大正3年(1914)盛岡中学校を卒業。最終学年の成績は88人中60番だった。その後約一ヶ月の入院生活を送るが、創作に目覚めたのもこの中学時代。この頃寺に下宿、参禅、禅に親しみ、受験勉強に励み、大正4年(1915)盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席入学、中学時代とは打って変わった優秀な成績で、研究生を修了するまで盛岡で過ごした約10年で賢治固有の思想が形づくられていった。

 大正10年(1921)賢治は親に無断で上京。約8ヶ月の滞在期間中に賢治の作家志望が強く刺激され、その後の人生の大きな転機になったと言われる。帰京後の花巻農学校教師時代を通して、農村の疲弊を目の当たりにして、花巻に羅須地人協会を設立、農民の指導に当たっていたが、病に倒れ活動を断念、昭和8年(1933)37才で死去。理想と現実の狭間でもがき苦しみながら、大正13年(1924)、念願の詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」、病の床で手帳に記した「雨ニモマケズ」、未完の傑作「銀河鉄道の夜」など数々の作品を生み出した。

 今回、賢治の作品を生んだ土壌や背景などに触れようと、先ずは花巻市の宮沢賢治記念館に立寄り、ここでは賢治の写真や多くの作品の自筆原稿をはじめ愛用のチェロなど貴重な遺品が展示がされていた。周辺には宮沢賢治童話村・宮沢賢治イーハトーブ館などがあり、少しは賢治の心象世界に接することが出来た。

 記念館に展示されている資料によると、賢治の碑は、平成11年現在、花卷市内に25基、岩手県内に44基、県外に21基と実に90基を数えると紹介されていた。花卷と云えば、羅須地人協会跡の「雨ニモマケズ」の詩碑、その後半を、高村光太郎の書で刻んだ賢治碑の第一号と云う。当初この碑に刻む詩は「春と修羅」の(業の花びら)が候補にもなったが、難解なこともあったため、最終的には「雨ニモマケズ」が選ばれたことや追刻の経緯なども印象深く感じられた。これを機会に、賢治が少年・青春時代を過ごしたゆかりの地・花巻から盛岡へ足をのばし、賢治ゆかりの地、歌碑めぐりに向かった

 

  <追記>
賢治の作品に登場する鉱物や天体の資料を展示する企画展「賢治がみつめた石と星」が神奈川県は平塚市博物館(平塚市浅間町)で期間2019.11.2〜2020.1.13まで開かれているので訪ねた。賢治の作品には星や石、生き物などに例えた比喩的な表現が出てくるので、賢治の描いた世界を理解することは容易ではないが、今回の鉱物などの実物や資料、解説を通して賢治の世界を読み取る一助になればと思っている。尚、今回の企画展は花巻市と平塚市の友好都市協定締結35周年を記念して企画された。

 

 花 巻

宮沢賢治記念館

 詩や童話、短歌、農業、科学など賢治の多彩な活動について紹介され、直筆原稿や愛用のチェロなど貴重な品々も展示されている。

賢治設計の南斜花壇  

 賢治は数多くの花壇を設計しているが、幻の花壇と云われていた花巻温泉の「南斜花壇」が記念館裏側斜面に復元されている。

南斜花壇 菊花品評会句碑  

班猫は二席の菊に眠りけり  

狼星をうかゞふ菊の夜更かな

秋田より菊の隠密はいり候 

花はみな四方に贈りて菊日和

水霜をたもちて菊の重さかな 風 耿

「装景手記」ノートより5句が刻まれている。「風 耿」は”ふうこう”と読み、賢治の俳号である。俳句は数少ない。

宮沢賢治童話村・賢治の学校  

 賢治の童話の世界で楽しく遊ぶ「楽習」施設。そのメーンとなる「賢治の学校」は宇宙や天空、大地など5つのゾーンに分かれた部屋で、幻想的な体験を満喫できる。

童話村 わらべの像  

 「あんまり 川を にごすなよ」 風の又三郎 宮沢賢治

童話「風の又三郎」(九月七日)より

宮沢賢治イーハトーブ館 

 宮沢賢治に関する様々なジャンルの芸術作品、研究論文を数多く収集し、整理公開している。 

賢治文学散歩道

 同心屋敷から賢治詩碑に向かう歩道は賢治文学散歩道と呼ばれており、その脇には賢治作品をモチーフとしたオブジェや詩碑が数多く設置されている。

   

弥助橋跡

 賢治の作品「春と修羅・第三集」所収の「饗宴」の題材になった弥助橋跡。

饗宴 詩碑

 「酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで みんなは酒を飲んでゐる

 ……土橋は曇りの午前にできて いまうら青い榾のけむりは」   以下略

「雨ニモマケズ」 詩碑(羅須地人協会跡)

 「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

  東ニ病氣ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

  南ニ死ニサウナ人アレバ行ツテコハガラナクテモイイトイヒ

  北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノ夏ハオロオロアルキ

   ミンナニデクノバウボートヨバレホメラレモセズ苦ニモサレズ

   サウイフモノニワタシハナリタイ」

                      宮澤賢治

 「雨ニモマケズ」の後半を刻んだ宮沢賢治碑の第1号。碑文は高村光太郎が揮毫。揮毫の依頼原稿に原文との違いがあって、建碑10年後、脱字の「松ノ」「ソノ」「行ツテ」と「バウ」 が「ボー」と訂正、追刻されている。

下ノ畑(賢治自耕の地)

 羅須地人協会玄関脇の黒板に「下ノ畑ニ居リマス」と書かれていたという。 畑はこの詩碑の眼前に広がっている。現在、羅須地人協会の建物は県立花巻農業高校の敷地内に復元されている。

鳥谷ケ崎神社境内 賢治詩碑 

  「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 」

 碑文には鳥谷ヶ崎神社例大祭を詠んだ賢治のこの歌が相応しいと選んだ。

花城小学校跡(賢治母校) 

 在学中の賢治は、成績、行状とも優秀で、鉱物、植物、昆虫採集に熱中する少年でした。 

イギリス海岸(国名勝) 

 北上川の西岸の川底に見える白い岩肌のようすがイギリスのドーバー海峡に似ていることから賢治が命名。現在は川の切り替えにより川底は見えない。 写真は現地の案内図より

身照寺

 宮沢家菩提寺の日蓮宗の寺。境内裏手には二基の墓石があり、向かって左側が賢治の墓で、右側は宮沢家代々の墓。 


花巻城跡 

 花巻城は、かつて鳥谷ケ崎城といい、鎌倉時代以来の豪族稗貫氏の居城であったが、慶長19年(1614)に盛岡藩南部政直が2万石を領有することになり、城も花巻城と改められた。当時は二の丸、三の丸まである巨大な平城だったという。 明治2年(1869)に廃城となり取り壊され、現在その遺構は円城寺門と時鐘だけである。

円城寺門 

 鳥谷ケ崎神社入口にある風格ある木造2階建ての櫓門で、素朴な建築美を見せている。 

時 鐘 

 正保3年(1646)、盛岡藩3代藩主重直が盛岡城につくったが、鐘が小さかったため盛岡城下に響かず、花巻城に移された。 花巻市役所前の大手門跡にある。

復元本丸西御門 

 平成7年(1995)に、花巻開町400年を記念して、本丸西御門が復元された。

同心家屋(花巻市指定有形文化財)

 天正19年(1591)の九戸合戦の際、鳥谷ケ崎城の守備にあたった秀吉の腹心・浅野長政の家臣30人が、花巻にとどまって花巻同心組となった。彼らの住居30軒の内、江戸時代末期に建てられた現存する茅葺き曲り家の2軒を移築したものである。

居 間 

 茅葺屋根を長持ちさせるため、囲炉裏の煙で茅を内側からいぶしている。

勝行院(浄土宗)(国指定重要文化財) 

 花巻の豪商清水甚兵衛の寄進によって建てられた。本尊の阿弥陀如来像は寄木造りで地域の人々から如来さんと呼ばれ親しまれている。


  盛 岡

岩手公園内 賢治詩碑

  「かなた」と老いしタピングは 杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の さびしき銀は声もなし
(以下略)
宮沢賢治「岩手公園」の碑文です。中津川河畔にほど近い岩手公園芝生広場の一角に建てられている。

盛岡市役所裏 賢治詩碑

 「川と銀行 木のみどり 町はしずかに たそがる る」

 明治44年(1911)に建てられた盛岡銀行本店が賢治の詩に登場する「銀行」である。現在も岩手銀行中ノ橋支店として営業を続け、有形文化財として国に指定されている。

賢治清水傍 賢治詩碑

  「夜明けには まだ間有るのに 下のはし ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ 夜明けがかつた雲のいろ ちゃんがちゃんがうまこ 橋渡て来る。」 以下略

 賢治が学生の頃、明け方、ちゃんがちゃんがうまこの鈴の音を下ノ橋近くの下宿で聴き、詩を作ったという。

下ノ橋際 賢治の井戸

 この井戸は宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に弟と玉井家に下宿していた時に使用していた共同井戸です。

もりおか啄木・賢治青春館(旧第九十銀行本店本館)

 明治43年に竣工された旧九十銀行が、現在「もりおか啄木・賢治青春館」として保存活用され、2人の青春時代を紹介している。レンガ造りの美しいロマネスク風の近代西洋建築物で国の重要文化財。

<いーはとーぶアベニュー材木町>

光原社

 賢治の童話集「注文の多い料理店」を出版したことで知られ、現在は南部鉄器や民・工芸品を扱う観光スポット。

光原社中庭 イーハトーブ童話「注文の多い料理店」出版の地の碑

 「注文の多い料理店」出版に尽力した及川四郎が創業した光原社中庭に記念碑が建っている。社名は賢治が命名した。

光原社中庭 詩碑 

 「あゝマヂェル様どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますようにそのためならばわたしのからだなどはなんべん引き裂かれてもかまひません」

賢治 「注文の多い料理店」烏の北斗七星より

「雨ニモマケズ」詩碑

 盛岡市材木町商店街振興組合2018年春の52周年記念として材木町美容外科前に建立された。大きさは奥行き90cm、幅160cm、高さ60mで、中国産の花崗岩を使い重さが2トンある。「雨ニモマケズ」全文が刻まれている。

宮沢賢治のモニュメント(石座)

 背広を着た賢治が座る石座を始め、星座、音座、絹座、花座、詩座の6のモニュメントが彩りを添えている。

賢治のモニュメント(音座)

 賢治の愛したチェロのオブジェ。賢治が作曲した「星めぐりの歌」が聞こえる。

盛岡第一高校・白亜記念会館玄関前の宮沢賢治碑文の詩

 「生徒諸君に寄せる 宮沢賢治

   諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いてくる 透明な清潔な風を感じないのか」

 碑文の詩「生徒諸君に寄せる」は昭和2年(1927)盛岡中学校校友会雑誌に賢治が先輩詩人として寄稿を求められたときのもの。

旧盛岡高等農林学校正門跡

 旧盛岡高等農林学校は明治35年(1902)に我が国最初の高等農林学校として設置され、現在は農学部付属農業教育資料館として使用されている。平成6年(1994)旧正門は門番所とともに国の重要文化財に指定された。

岩手大学の賢治のモニュメント

 賢治の母校、岩手大農学部(旧制盛岡高等農林学校)の創立100周年を記念して、同大教育学部の藁谷収教授により、約半年かけて賢治をモデルとして制作されたモニュメント。

南昌山

 矢巾町のシンボルともいえる南昌山(標高. 848?)は、宮澤賢治が何度も訪れていたことでも有名。山頂付近は安山岩やデイサイトからなり、周辺は流紋岩からなっている。賢治の「銀河鉄道の夜」の舞台となった場所。

弊懸(ぬさかけ)の滝

 南昌山の登り口にある滝で、その昔入山の安全を祈ってマタギが幣束を捧げたと言われている。


  平塚市博物館

  2019年度 冬期特別展「賢治がみつめた石と星」

賢治の詩碑(平塚市文化公園)

 「世界がぜんたい 幸せに ならないうちは 個人の幸福は あり得ない」賢治の詩「農民芸術概論綱要」の一説が刻まれた石碑。

賢治の手帳

 「ホメラレズモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」通称、雨ニモマケズ手帳を再現したレプリカ。

種々の岩石や鉱物・岩手の風景

岩手県は地質学的には北上山地、奥羽山脈、北上低地帯の3つの多様性に富んだ地域にあり、様々な時代、種類の岩石が分布していることから、地質学に深い興味を持つようになったのかもしれない。

今回のコーナーでは、作品に登場するものの中から、鉱物・岩石を取り上げ、黄水晶、瑪瑙、硫黄、薔薇輝石、孔雀石、トルコ石、ヒスイ、藍銅鉱、天青石、瑠璃、エメラルド、温石石、流紋岩、安山岩、デイサイトなどをテーマ毎に展示、紹介している。 

その2

 

その3

 

その4

 

その5