
小机城は鶴見川に突き出た丘陵上に立地し、15世紀半ば頃(室町時代)までに関東管領上杉氏により築かれたとされている。文明10年(1478)には長尾景春(山内上杉家の宿老)の乱に伴う戦乱で、太田道灌(扇谷上杉家の家宰)によって攻め落とされ一度廃城となる。
その後、戦国時代には、後北条氏の勢力下に置かれ、北条氏の重臣・笠原越前守信為が城代となり、小机城は後北条氏の有力な支城となったが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原の役で後北条氏の滅亡により廃城となった。
城の周囲には土塁や空堀、本丸、二の丸などその頃築かれた遺構が現在も残されており、現在はこの遺構を保存・整備して「小机城趾市民の森」となり、親しまれている。
ここで太田道灌についてひと言触れると、、江戸城築城(1456〜翌1457)や「山吹伝説」、「常山紀談」(戦国武将の逸話集)のエピソードからも文武に秀でたことで知られているが、長尾景春の乱を治めた後、山内上杉顕定は一計を案じ、主君の扇谷上杉定正に讒言をしたことにより、糟屋(かすや)の舘(神奈川県伊勢原市)に呼び寄せられ殺害された。
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