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久保田城(市名勝)〜

旧黒澤家〜旧金子家

 

 

 関ヶ原の役に際し、佐竹義宣は西軍寄りの中立をとったので、家康の不興を買い、慶長7年(1602)に常陸国(54万5千石)から出羽秋田(20万5千石)へ転封となり、慶長9年(1604)現在地に土の城を築城した。

 本丸・二の丸・三の丸の三重構造で、石垣をほとんど使用せず、天守閣もない土造りの城として知られている。

 市制100周年を記念して平成元年(1989)に、二の丸跡に御隅櫓(写真)が復元されている。現在は千秋公園として市民の憩いの場になり、公園内には佐竹史料館や神社などがある。

 駆け足で、秋田藩上級武士の武家住宅旧黒澤家住宅と江戸後期の建築様式を残す代表的な町家旧金子家住宅にも足を運んだので紹介します。

 

 

 

 久保田城址

大手門堀

 城の周りを巡っていた外堀はほとんどが埋め立てられ、現在残っているのは大手門と穴門の堀だけとなっている。

穴門跡

 外町や土崎湊に通じる重要な門であった。二層の一ノ門があり、足軽番所が置かれていた。その西方にニノ門があり、枡形を形成していた。

表 門(一ノ門)

 出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。 表門は本丸の正門で、木造2階建て瓦葺の櫓門。平成13年に再建。

本丸跡

 本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。

二の丸跡

 本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などが置かれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に解放されることもあった。

御物頭御番所(市指定文化財)

 久保田城内唯一の遺構。久保田城内の二ノ門の開閉の管理と城下の警備、火災の消火などを 担当していた物頭の詰め所です。

以上説明板より

佐竹義尭公銅像

初代義宣から数えて12代260数年にわたり秋田6郡を領した久保田藩最後の12代藩主で、明治維新を迎えた。

八幡秋田神社

 初代藩主佐竹義宣公を始め、歴代の藩主を祀る神社。

胡月池

 千秋公園は桜やツツジの名所として有名ですが、二の丸の胡月池の 初夏のハスは特に美しいようです。

佐竹史料館企画展

 伏見区桃山福島太夫西町の伏見城城下町跡の発掘調査(京都市埋文研調査)により見つかった京都伏見佐竹義宣邸出土屋根瓦。二の丸にある佐竹史料館には、城主、佐竹氏の関連史料が展示されている。

三の丸跡・平野政吉美術館

 現在では三の丸跡は市街地化され、秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館などがある。


旧黒澤家住宅(武家住宅)(国指定重要文化財)

所在地/秋田市楢山

 旧黒澤家住宅は、今から約300年前に現在の秋田市中通三丁目に建てられた上級武家屋敷住宅です。当時の中通地区は三廓(さんのくるわ)と呼ばれ、上級、一部中級の武家住宅を配し、久保田城の正面の守りとされていた。

 江戸時代のおいて、藩士の住宅は藩の所有物で、藩士の身分、石高に応じてあてがわれていました。そのため藩の都合や藩士の身分の変化により住居者の変更が行われた。旧黒澤家住宅も芳賀家、赤田家、吉成家、平井家、黒澤家の順に変わり、黒澤家は文政12年(1829年)から住居している。石高500石、山奉行、寺社奉行の要職を務めた上級武士です。


旧金子住宅(商家)(秋田市指定文化財)

所在地/秋田市大町

 旧金子家は、江戸時代後期に質屋・古着商を開き、明治初期に呉服・大物卸商として創業していた。この建物では、昭和57年まで商売が営まれていた。平成8年に秋田市に寄贈され、平成9年に江戸時代後期の伝統的な形式を継承した建物として秋田市有形文化財に指定されている。建物は主屋一棟、土蔵一棟で構成されてる。  各屋敷の説明文より