松本城(国宝・国史跡)
天 守・櫓
天守群は大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟で形成されている。大天守と乾小天守は渡櫓で結ばれ、辰巳附櫓と月見櫓が付設された珍しい構造になっている。大天守と乾小天守、渡櫓は石川数正、康長親子により戦国時代末期に築造さと考えられている。辰巳附櫓と月見櫓は江戸時代初期に松平直政によって建てられ、戦の多い戦国時代と平和な時代の江戸期という違う時代の天守、櫓が複合された天守群は我が国唯一で大きな特徴の一つである。 |
石 垣
天守、乾小天守、渡櫓の石垣は修理を施しているが、400年以上前に積まれたままで積み替えは行われていない。天守台の石垣は野面積みで未加工の自然石を使用した石垣です。天守台四隅の石垣は長辺と短辺を交互に石を積み上げ、角を整える算木積みです。石垣の左右上部に「石落」がある。 |
本丸御殿跡
黒門(一の門)を入ると、本丸。その中に仕切りをしてある部分が本丸御殿。藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)に消失、その後再建されることはなく、政庁は二の丸御殿に移った。 |
二の丸御殿跡
天守に続いて建てられたと考えられている。当初は副政庁として、本丸御殿焼失後は正政庁として機能した。 |
太鼓門枡形
二の丸へ入る門。太鼓門は文禄4年(1595)頃築かれ、太鼓楼は時の合図、登城の合図、火急の合図などに使われていたが、明治初年に破却された。平成4年に石垣を復元、平成11年に門が復元された。樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用している。 |
太鼓門玄蕃石
枡形の中に入ると、入口左に巨大な「玄蕃石」がある。築城者の石川康長の官名の玄蕃に由来。 |
切 株
梁に使われた樹齢400年の松です。 |
黒 門(一の門)
本丸・本丸御殿に入る格調高い正門。昭和35年に復興された。 |
黒 門(二の門)
内堀を渡ったところにある門で高麗門です。平成2年にこの門と控弊が造られ、枡形が復元された。 |
埋門と朱色の埋橋
石垣を通路の幅だけ切り通して門を設けたもので、石垣に埋もれて見えることからこの名がある。平成23年(2011)の地震によって、埋門の石垣がズレたため、埋橋を渡っての入場は閉鎖されている。 |
外 堀
二の丸を四方に囲む外堀。二の丸の四隅には二重櫓が配され防御を固めていた。 |
城下町
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旧開智学校校舎(重要文化財)
明治9年(1876)開智学校の校舎として完成した建物。色ガラスやバルコニーの竜の彫刻などが美しい「擬洋風建築」です。 |
旧司祭館
明治22年(1889)にフランスのクレマン神父によって建築された西洋館。 |
高橋家住宅(市重要文化財)
江戸時代中期に建てられた武家屋敷で、現存する武家住宅では長野県で最も古く、一石置き屋根の風情ある建物が特徴。 |
庭
間取りは北の二間(次の間、座敷)南の二間(居間、奥の間)東側が土間の構成で、南側が庭になる。 |
松本市時計博物館
古時計の技術者であった本田親蔵氏が収集した和洋の古時計を展示する博物館 。収蔵品は関連資料も含め約600点にも及ぶ。 |
中町通り
白壁となまこ壁の土蔵が建ち並ぶ蔵の町通り。民芸品や工芸品の店、カフェなどが立ち並んでいる。火災によって大きな被害を受けたため、江戸時代後期から昭和初期に掛けて、防火対策としてなまこ壁の商家が建築された。 |
蔵シック館
1890年頃に建てられた造り酒屋の母屋、土蔵、離れの3棟を移築しイベントや展示会も開いている中町の拠点。 |
縄手通り
城の南総堀と女鳥羽川に挟まれて「縄のように細長い土手」と言うところから由来している。城下の町並みを再現した通りで、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。 |
四柱神社
4つの神様を祀っている神社。「願い事むすびの神様」として、特に商売繁盛を願う参拝客が多い。 |
源智の井戸(市特別史跡)
松本市内に数多く点在する井戸の一つで、名水として名高い。松本に城下町が形成される以前から飲用に用いられた古い歴史を持っている。 |
大名町通り
女鳥羽川にかかる千歳橋から松本城まで延びる通りで、老舗があり城下町の風情が残っている。 |
西総堀残存土塁
大正8〜10年(1919〜21)に西総堀は埋められたが、ここだけ奇跡的にそのままの状態で土塁が残されていたことから、2010年3月、公園として整備公開された。 |