HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

名所・旧跡めぐり

遺跡めぐり

松戸宿〜戸定邸

 

 東京に近いベッドタウン松戸は、江戸時代には江戸と水戸を結ぶ水戸街道の江戸から三つ目に当たる宿場「松戸宿」(写真左)として栄えました。

 松戸駅西口を降りて、駅前大通りを進むと日本橋から水戸へ繋がる旧・水戸街道と交差しますが、先ずは江戸方面に向かって、「松戸探検隊ひみつ堂」に立ち寄って案内マップを貰い、これを手にして街道沿いに点在する多くの寺社や古い店、旧跡など、松戸の宿場の町並みを訪ねました。

 旧水戸街道を離れ、松龍寺から宮前隧道(常磐線の線路の下)を歩いてわたり、次の目的地「戸定邸」へ向かいます。

 この地は古から戸定と呼ばれ、水戸藩最後の藩主であった徳川昭武の別邸として、明治17年(1884)戸定が丘に「戸定邸」(建物は国指定重要文化財)(同右)が建てられました。木造平屋建一部二階建、敷地22,000坪で、大名屋敷の姿を今に留める邸宅として、全国的にも数少ない貴重なものです。

 庭園(千葉県指定名勝)は全面に敷き詰めたゆるやかな起伏のある芝生に、丸い樹木の刈り込みを配する和洋折衷庭園の初期の作例と云われています。

 旧大名家の建築した純和風住宅としては、今では全国でわずかに三例、戸定邸の他に佐倉市の旧堀田邸、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸)しか残されていないと言われています。

 余談ながら、昭武の兄は江戸時代最後の将軍・慶喜、この兄の次の将軍候補と目されていたので、幻の将軍と呼ばれています。昭武没後、戸定邸は子・武定に譲られ、松戸徳川家の本邸になりました。

 

 

 

 松戸宿

現在の旧水戸街道

 江戸時代、江戸から水戸に至る街道で、千葉県内の宿場は松戸・小金・我孫子の三か所あった。中でも松戸宿は将軍慶喜が江戸を去る際、水戸への途中に宿泊するなど多くの人が行き交う大きな宿場として栄えた。

西蓮寺

 光明山西蓮寺は文禄3年(1594)に創建された真宗大谷派の寺院。西蓮寺の歴代住職は教育熱心で、江戸時代末期に本堂で寺小屋を開き、近隣子弟の教育に当たっていたと伝えられている。

善照寺

 松戸山善照寺は真言宗豊山派で、開山開基は不詳。松戸七福神が祀られている寺。

宝光院

 宝光院は真言宗豊山派の寺院で山号は梅牛山。本尊は不動明王。千葉周作の顕彰碑とその父浦山寿貞の墓所がある。

千葉周作修業之地の標柱

 宝光院の門前に住み、この宝光院とこの先の善照寺との間は、後に北辰一刀流を編み出した千葉周作が修行した浅利道場があった場所。

旧・原田米店

 大正6年(1917)に建てられた老舗米屋。向かい側に新店舗を構えて営業している。現在は観光案内所「ひみつ堂」。

坂 川 春雨橋からの眺め

 毎年春夏には「桜まつり」「献灯まつり」が開催されている。昭武や兄慶喜はこの川の写真を残している。

旧商家

 今も明治末期から大正時代の建物が残り、往時の面影を感じさせる。

旧商家

 今も明治末期から大正時代の建物が残り、往時の面影を感じさせる。

松戸神社本殿

 江戸時代の寛永3年(1625)の創建。日本武尊が東征の際に従者と待ち合わせた地に社殿が建てられたと伝えられている。

松戸宿本陣跡

 マンションの建つ敷地が松戸宿本陣跡。本陣と脇本陣(松戸郵便局)が並んでいた。

天保14年(1843)当時の記録によると、人口1886人、家数436軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒と記されている。

御料松戸宿碑

 江戸川畔から松戸宿(下横町)に入る水戸街道、その入り口に「是より御料松戸宿」と刻まれた傍示杭が建てられている。

松龍寺

 広大山高樹院松龍寺は、元和元年(1615)東漸寺末寺として小山に創建された浄土宗の寺院で、慶安3年(1650)当寺へ引寺し再興された。小金牧での鹿狩りでは八代将軍吉宗の将軍休憩所となった寺。


 戸定邸(国指定重要文化財)

正 門

茅葺きの鄙びた門構えで、一見質素にも見える。

表玄関(客人用)

軒を低く抑えた玄関。この玄関は賓客の出入り口。

内玄関(使いの者、家人用)

 表玄関の半分位の大きさで、訪問者のお供や使いの者が使用した。

内 蔵

 葵の紋の入った長持ち(婚礼調度品)が展示されている。

 内壁、扉は石材ではなく、モルタル仕上げだが、重厚感がある。蔵の中には二階へ通じる階段もある。

使者の間

 賓客のお供で訪れる従者の二間続きの部屋で、周囲には色壁がめぐらされいる。

 欄間には「こうもり」(中国では福を招くとされている)をかたどった意匠が施されている。

客間・中の間(表座敷棟)

 床の間と違い棚のある最も格式の高い部屋。南に二間、北に三間で構成され、南の二間は賓客用の客間として使われ、周囲に配した入側が格式を高めている。この配置は大名屋敷の大書院と御座の間にあたると考えられている。

 欄間には「葵の紋」のデザインが施され、釘隠しも「葵の紋」を用いている。客間からの庭の景色は明るく広々として素晴らしい景観です。

書 斎(表座敷棟)

明治中期、昭武はこの部屋で過ごすことが多かったという。

衣装の間・化粧の間

来訪した客の便衣、化粧の為に設けられたものと云う。

八重の間(奥座敷棟)

 客室(表座敷)から離れた「奥」に属するこの部屋は昭武の妻であった八重(明治元年〜昭和12年)が使用していた。

湯 殿

 徳川家の家族と来客の為の浴室。タイル張りのこの湯殿は後になっての改造時のもの。当時は掛け湯だっという。

渡り廊下

離座敷に向かう廊下。地面の高低差に合わせ、勾配がある。

秋庭の間(離座敷棟)

 昭武の生母の為に建てられた茶の間と二間続きの座敷になっている。

 欄間には「竹に雀」をかたどった意匠が施されている。生母の実家・萬小路宮の家紋にちなんでいる。

洗面台

 生活の変化に合わせ、昭和になって設置されたもので、銅版のシンクの付いた文机のような洗面台。

台所棟

 使用人たちが使った部屋で、唯一二階建ての部屋。一階は台所、(現在はボランティアガイドさんの控室)二階は住み込みの女中さんの部屋であった。