盛岡城跡(岩手公園)(国史跡)
本丸跡
天守台は築かれたが、幕府への配慮から天守は築かれなかった。代わりに白壁造りの御三階櫓 本丸には御殿・二重隅櫓三棟など壮麗な建造物が建てられていた。 |
南部中尉銅像台座
本丸のほぼ中央にある主なき銅像台座。台座の主は1904年(明治37)開戦の日露戦争に従軍していた皇族軍人を守り抜き、その楯となって戦死した南部中尉、南部家第42代当主南部利祥公の騎馬像の銅像。1944年(昭和19)、兵器を生産するための金属特別回収で、姿を消した。 |
本丸御末御門跡
本丸東側からの入口で、城門の跡は鍵型に折れている。 |
腰曲輪(淡路丸)
この付近は、藩主が乗馬の練習をした馬場となっていた。江戸末期には周囲は石垣が構築され、現状のような平坦な地形になった。 |
腰曲輪南側の石垣
隅は整然とし算木積で、長い石を左右交互に向けて積み上げられている。 |
宝蔵跡(腰曲輪)
腰曲輪にある宝蔵跡。 |
二層櫓跡(腰曲輪)
腰曲輪南東隅の石垣が一段高くなっているところには二層櫓が建っていた。 |
宮野小堤灯句碑
腰曲輪に「月待つや独り古城の松のもと」の句碑が建つ。盛岡市出身の俳人。岩手俳壇の重鎮として活躍した。 |
淡路丸大明神跡の碑
南部信直公の遺徳を偲び奉るため、淡路丸に「淡路丸大明神」が建立されていた。神殿が鎮座する淡路丸には桜の木が茂り、桜山と呼ばれていたことに因んで改称された。 |
御廊下橋・石垣・空堀
この橋は御廊下橋と云われ、屋根の付いた三重構造の橋でした。左側が本丸、右側が二の丸です。本丸の石垣は慶長の創築期、二の丸の石垣は新しく延宝の改修期のものです。空堀によって本丸と二の丸が仕切られている。 |
二の丸跡
城中の儀式を執り行う壮麗な二の丸御殿が建てられていた。 |
啄木歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」
二の丸跡に、盛岡中学で2年先輩の金田一京助揮毫のの歌碑が建っている。当時の盛岡中学は盛岡城内丸にあり、啄木はよく授業を抜け出して城内を散策していた。 |
三の丸跡
三の丸付近には八幡社が鎮座していた。その傍らの三角状の岩が「烏帽子岩」の出現のいわれとなる。 |
烏帽子岩「宝大石」
三の丸跡に、築城時に地下から発見された巨大な岩石。岩には注連縄を張らせ、盛岡城の神石、桜山神社の宝大石として長い間崇め奉られている。 |
宮沢賢治詩碑
「かなた」と老いしタピングは杖をはるかにゆびさせど 東はるかに散乱のさびしき銀は声もなし (以下略) 宮沢賢治「岩手公園」の碑文です。中津川河畔にほど近い芝生広場の一角に建てられている。 |
彦御蔵
盛岡城内に現存する唯一の建造物で、棟札がなく建築年代は不明ですが、江戸後期に建てられたと考えられている。この蔵は、現在地から約100m西側の市道側にあった。道路拡張計画の範囲にあったため移設保存されることとなり、江戸時代に米蔵のあったとされる現在に曳家し、改修されたものです。 |
桜山神社
三の丸跡に、江戸時代中期の1794年(寛延2年)に社殿が創建され、南部藩の総鎮守として信仰された。南北朝時代初期の国長の作と伝えられる刀が所蔵されている。国の重要文化財に指定されている。 |
鶴ケ池
鶴ケ池の反対側に亀ケ池があり、ともに内堀の跡である。 |
中津川周辺
「盛岡中学校濫觴の地」碑
「盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我をよらしめ」「一握の砂」より
啄木が学んだ盛岡中学校跡地の岩手銀行本店あたりに建っている。 |
盛岡中学校跡の碑 啄木歌碑
「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」「一握の砂」より
岩手銀行に隣接する岩手医大循環器医療センター敷地内にある「盛岡中学校跡」の碑。 |
石割桜
樹齢360年とも言われるエドヒガンザクラ。周囲21mの巨大な花崗岩を割ってたくましく伸びる珍しい桜です。 |
岩手県公会堂
重厚でモダンな建物は、昭和天皇のご成婚を記念して昭和2年(1927)に建てられた。 |
時 鐘
延宝7年(1679)の鋳造。明治9年、現在地近くにあった郡役所の構内に三戸町から移転され、昭和30年頃まで約28年間にわたって盛岡市民に時刻を知らせてきた。 |
旧井弥商店(保存建造物指定)(現盛岡正食普及会)
明治時代を代表する黒漆喰の土蔵造りの建物で、近江出身の豪商の名残を留める呉服問屋跡です。 |
富士見橋 啄木歌碑
「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」「一握の砂」より
中津川の上の橋上流に架る富士見橋左岸の橋の親柱には、啄木の望郷歌が銅板ではめ込まれている。この地で、南部片富士と呼ばれる岩手山が望まれることから付けられた。欄干の飾りはケシの花をモチーフにしている。 |
文芸雑誌「小天地」発行所跡
富士見橋近くには、啄木が文芸雑誌「小天地」を発行した跡地がある。今はアパートに変わっている。 |
上の橋擬宝珠
中津川に架かる上の橋の青銅の擬宝珠は藩政時代の面影を伝えるシンボル。18個の内8個が1609年(慶長14)、10個が1611年(慶長16)の銘を刻み、1945年(昭和20)に国の重要美術品に指定されている。 |
「壬生義士伝」の舞台となった上の橋
南部盛岡藩藩士・吉村貫一郎が家族のために脱藩して新撰組に入隊、京の三条大橋に佇み、「盛岡にも擬宝珠のついた橋がある」と懐かしんだという忘れがたい橋。また、浅田次郎氏の「壬生義士伝」では、主人公の吉村貫一郎が幼い娘のミツに別れを告げた舞台がこの橋。 |
盛岡市役所裏 宮沢賢治詩碑
「川と銀行木のみどり町はしずかにたそがるる」
明治44年(1911)に建てられた盛岡銀行本店が賢治の詩に登場する「銀行」である。現在も岩手銀行中ノ橋支店として営業を続け、有形文化財として国に指定されている。 |
深沢紅子野の花美術館
生涯を通じて野の花と女性像を描き続けた盛岡出身の画家(1903−1993)。立原道造や堀辰雄ら多くの文学者、詩人たちと交流し、挿絵や装丁も数多く手がけている。 |
ござ九(道路側)
文化13年(1816)創業の商家で紺屋町側の母屋。江戸末期から明治末期の建物で、竹製品など日用雑貨の老舗として親しまれている。 |
ござ九(中津川側)
裏側の土蔵7棟と土塀。川べりの土塀は盛岡を代表する景観になっている。 |
盛岡市役所裏付近 啄木歌碑
「中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と」 「明星」より
中の橋と与の字橋の間に建っている。 |
巴染工
明治41年(1908)創業の老舗。屋号は商人、機屋、染物屋の三者で「三つ巴」になり精を出して商売をしていたことに由来する。 |
菊の司酒造土倉
大正末期から昭和14年にかけて数棟が建築されており、内部で建造物がつながっている。酒造用に建築され、現在は主に貯蔵用に使われている。 |
白沢せんべい店
昭和11年の創業。小麦粉を焼いた南部せんべいの老舗。種類も豊富です。かつては南部藩士の野戦食であり、後におやつや主食として南部地方に伝えられた。 |
紺屋町番屋
大正2年、六角形の望楼を持つ洋風の番屋に改築された。「与の字橋」にその名が残る「よ組」の屯所として近年までその役目を担ってきた。 |
釜 定
明治後期に創業した南部鉄器の老舗。創業者の「定吉」より一字とって屋号を「釜定」としている。昔ながらの商家造りの建物です。 |
岩手銀行(旧盛岡銀行本店本館)
東京駅の設計で知られる辰野金吾と岩手出身の葛西萬司建築事務所が設計して明治44年(1911)に建てられた。赤レンガと白い花崗岩の帯が美しい。国指定の重要文化財。 |
もりおか啄木・賢治青春館(旧第九十銀行)
明治43年に竣工された旧九十銀行が、現在「もりおか啄木・賢治青春館」として保存活用されている。レンガ造りの美しいロマネスク風の近代西洋建築物で国の重要文化財。 |
ホットライン肴町
江戸時代から続く商店街。ホットライン肴町(さかなちょう)を中心に約80の店舗が建ち並ぶアーケード街。 |
旧小野組土蔵
小野一族は近江の出身で、盛岡に出て財閥としての地位を確立した。明治維新時には、三井組(三井財閥)と共に、第一国立銀行を創設するほどの力を持っていた。この土蔵は江戸末期に造られたもので、約百年の歴史を持ち「維新の豪商」と謳われた小野組の数ある土蔵のうち現存する唯一のものです。 |
下の橋擬宝珠
1611年に完成した中の橋にも擬宝珠が取り付けられたが、明治43年(1910)の大洪水の折に、中の橋が洋式架橋されると、擬宝珠は下の橋へと移された。 |
賢治清水傍 宮沢賢治詩碑
「夜明けには まだ間有るのに 下のはし ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと。
ほんのぴゃこ 夜明けがかつた雲のいろ ちゃんがちゃんがうまこ 橋渡て来る。」 以下略
賢治が学生の頃、明け方、ちゃんがちゃんがうまこの鈴の音を下ノ橋近くの下宿で聴き、詩を作ったという。 |
下ノ橋際 賢治の井戸
この井戸は宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に弟と玉井家に下宿していた時に使用していた共同井戸です。 |
新渡戸稲造生誕の地・銅像
「願わくはわれ太平洋の橋とならん」という名言に相応しい優れた国際人、新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市が下の橋町の生誕の地に、市民の浄財で建てられた。 |
下橋中学校 啄木歌碑
「その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ」 「一握の砂」より
金田一京助の書による歌碑が校庭に建てられている。下橋中学校の前身、盛岡高等小学校で楽しい三年間を過ごしている。この地は新渡戸稲造生誕の地で、時の小学校時代の校長でもあった。 |
下橋中学校
「城あとの古石垣にもたれて 聞くとしもなき 瀬の遠音かな」 若山牧水
「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」 石川啄木
啄木の最期を看取った若山牧水との友情歌碑もある。 |
御厩橋
「中津川や 月に河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と」 啄木
「中津川 流れ落合ふ北上の 早瀬を渡る夕霞かな」 一禎
中津川と北上川が合流するあたりに啄木父子の歌碑がある。 |
中津川・北上川合流点
開運橋から1kmほど下ったところが中津川(左)と北上川(右)の合流点。築城当時は北上川は本丸のすぐ西側を流れ、現在の下の橋付近で中津川と合流していた。水量が多く、頻繁に水害に遭ったので、北上川の流路を変える工事が行われた。 |
北上川・盛岡駅周辺
啄木歌碑
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 「一握の砂」より
啄木が愛したふるさとの山々を詠んだ歌。盛岡駅は啄木が何度となく利用した駅で、盛岡駅前広場に建てられている。 |
啄木新婚の家
明治38年6月4日から約3週間、啄木と節子が新婚時代に一家で過ごした家。。 |
婚約時代の啄木・節子
明治37年2月結婚、38年5月12日婚姻届を提出して石川啄木、節子は夫婦となった。この写真は37年秋に写したもの。 |
四畳半の部屋
啄木の書斎を兼ねた西向きの4畳半が啄木夫婦の部屋で、エッセイ「閑天地」はここで執筆された。 |
丸藤菓子店前(現・ローソン)の少年啄木像
「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれどー」 「悲しき玩具」より
中学を退学して上京する頃の啄木の姿を表現した岩手大の本田貴侶作の「北風に立つ少年啄木像」で、台座に歌が刻まれている。中学生(高等小学校)の頃、盛岡城の菜園跡地であったこの辺りもよく散策した。 |
啄木であい道
「かの時に言ひそびれたる 大切な言葉は今も 胸にのこれど」「一握の砂」より
北上川に架かる開運橋から旭橋の間の遊歩道に歌碑が立ち並んでいる。 |
光原社
賢治の童話集「注文の多い料理店」を出版したことで知られ、現在は南部鉄器や民・工芸品を扱う観光スポット。 |
光原社中庭
「あゝマヂェル様どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますようにそのためならばわたしのからだなどはなんべん引き裂かれてもかまひません」
賢治 「注文の多い料理店」烏の北斗七星より |
「雨ニモマケズ」詩碑
盛岡市材木町商店街振興組合52周年記念として材木町美容外科前に建立された。大きさは奥行き90cm、幅160cm、高さ60mで、中国産の花崗岩を使い重さが2トンある。「雨ニモマケズ」全文が刻まれている。 |
宮沢賢治のモニュメント(石座)
いーはとーぶアベニュー材木町の通りには背広を着た賢治が座る石座を始め、星座、音座、絹座、花座、詩座の6のモニュメントが彩りを添えている。 |
宮沢賢治のモニュメント(音座)
宮沢賢治とその作品に因んだモニュメントが並び、独特の雰囲気を醸し出している。 |
小野染彩所
南部藩専任の染め師を務めていた創業400年以上の老舗。数々の染め型紙や資料を展示している。 |
原敬別邸「介寿荘」跡
ホテル東日本と日本生命ビル(1階に七十七銀行盛岡支店)の一角に、原敬別邸「介寿荘」があった。 |
北山・寺の下寺院群
寺町通り
名須川町界隈は、南部盛岡藩時代から寺院や神社が十社あまり続く寺の町。南部鉄器の街路灯やケヤキの大木が通りを彩り、「日本の道百選」にも選ばれている。 |
三ツ石神社(鬼の手形)
南部藩祖光行公を祭った市内最古の神社。境内にある3個の花崗岩には伝説がある。2度と悪さをしないと鬼が誓い、石に手形を押させたというもので、これが岩手の由来にもなっている。 |
報恩寺
報恩寺に安置されている五百羅漢は享保16年(1731)から4年の歳月を掛けて造られたものと考えられている。京都の9人の仏師によるもので、約500体が現存する。 |
盛岡市中央公民館(御薬園跡)
江戸時代前期に盛岡城中で用いる薬草を育て御薬園と呼ばれたところで、現在は公民館として市民に開放されている。 |
旧中村家住宅
館外には、旧中村家住宅(国重文)が移築され伯爵家別邸を思わせる美しい回遊式庭園もある。中村家(屋号糸治)は天明2年(1782)から盛岡で呉服や古着などを商った商家である。 |
大慈寺
?聚山大慈寺(黄檗宗)は1673年(寛文13)の創建で、平民宰相・原敬の菩提寺としても知られる。明治17年の火災で堂宇は類焼したが、原敬の篤志により山門や庫裡などが新築された。 |
本 堂
本堂は中国明代の様式を持つ万福寺(黄檗宗、宇治市)を模して再建された。 |
円光寺
元禄年間に再建された浄土宗の寺で、入母屋造りの屋根と格子妻飾りを組み合わせた古い寺院建築様式が見られる。盛岡が生んだ宰相・米内光政の菩提寺であり、お蓮女の首塚伝説でも知られる。 |
本 堂
本堂の前には、高さ20mを越える樹齢300年の夫婦カツラがある。 |
昭和旭蔵
明治6年創業の蔵元「あさ開」の酒蔵で、昭和63年に完成。酒造りの工程を見学できる。 |
岩山(啄木望郷の丘・啄木詩の道)
啄木望郷の像
岩山山頂の「啄木望郷の丘」に、啄木望郷の像が建立されている。像は故郷・玉山と姫神山の方角を向いている。 |
歌碑
石川啄木「汽車の窓 はるかに北に故郷の 山見えくれば襟を正すも」
石川節子「光淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸抱きぬ」
像の側には妻・節子との夫婦歌碑が建っている。 |
啄木詩の道
「啄木詩の道」には、啄木短歌十首が石に刻まれている。 |
岩手大学・盛岡一高
盛岡第一高校正面付近の啄木歌碑
「盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我をよらしめ」「悲しき玩具」より |
盛岡第一高校・白亜記念会館玄関前の宮沢賢治碑文の詩
「生徒諸君に寄せる 宮沢賢治
諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いてくる 透明な清潔な風を感じないのか」
碑文の詩「生徒諸君に寄せる」は昭和2年(1927)盛岡中学校校友会雑誌に賢治が先輩詩人として寄稿を求められたときのもの。 |
旧盛岡高等農林学校正門跡
旧盛岡高等農林学校は明治35年(1902)に我が国最初の高等農林学校として設置され、現在は農学部付属農業教育資料館として使用されている。平成6年(1994)旧正門は門番所とともに国の重要文化財に指定された。 |
宮沢賢治のモニュメント
賢治の母校、岩手大農学部(旧制盛岡高等農林学校)で、創立100周年を記念して同大教育学部の藁谷収教授により、約半年かけて賢治をモデルとして制作されたモニュメント。 |
啄木の妻堀合節子誕生の地と井戸
岩手大学植物園内で石川啄木の妻節子の生誕地と特定された場所に井戸が復元されている。 |
啄木・節子の歌碑
「ある日、ふと、やまひを忘れ、牛の啼く真似をしてみぬー妻子の留守に」「悲しき玩具より」 啄木
「ひぐるまは焔吐くくなる 我がうたにふと咲き出でし黄金花かな」 節子
井戸の石の蓋に刻まれた啄木・節子の歌碑。 |