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苗木城めぐり

 

 苗木城跡は中津川市内を流れる木曽川の右岸の高森山(標高432m、比高約170m)の山頂に、遠山氏により戦国時代(1526)に築かれた山城とされている。遠山氏は、鎌倉時代より地頭として苗木郷を治めていたが、戦国時代に、勢力を広げ、岩村に拠る岩村遠山氏を中心に「遠山七頭」と呼ばれた。

   その後、信長旗下の時代から秀吉の時代(遠山氏は家康の旗本)に、金山城主森長可に攻め落とされた。江戸時代になると、家康の下で18年ぶりに復活し、苗木藩1万石の大名となる。遠山氏はそれから明治に至るまで260余年、12代にわたり苗木領を治めた。

 苗木城は岩山という制約された地形の上に築かれたため、天然の巨岩と人工的に作られた石垣を巧みに使った城郭で、城内にはいろんな種類の石垣の積み方や、今も水をたたえる井戸などが残っている。

 足軽長屋跡からは、険しい岩山に築かれた苗木城の天守(写真)を見渡せる絶好の撮影スポットとなっている。天守跡には、当時の柱穴を利用して展望台が設けられ、恵那山や木曽川を初め中津川市街地が一望できる。

   昭和56年、小藩であるものの戦国時代の面影を留めている近世城郭であり、貴重であるとして、国史跡に指定された。

 

  本丸へは何カ所かの登城口があるが、城西側の苗木遠山資料館の駐車場に車を止め、少し登ると、龍王院跡を経て足軽長屋跡に到着、ここからは険しい岩山の上に築かれた苗木城の天守展望台が見える。さらに登っていくと、ほどなく風吹門跡から大門跡へ出る。大門跡は二の丸跡と三の丸跡を仕切っていた門で、三の丸跡へ進むと大矢倉跡があり、天然の巨石と切り込みはぎの石垣が融合され実に美しい。

  三の丸跡から大門跡を経て右へ二の丸跡。本丸に向かうと、菱櫓門の側に千石井戸跡があり、今でも水が沸いており、千人の用を達したと云う。菱櫓脇の本丸口門跡、さらに玄関口跡を登っていくと天守台に到着する。天守展望台からの木曽川の流れと中津川の市街地、さらには恵那山を初めとする美しい山並みの眺望が広がっている。

龍王院跡

足軽長屋の南側隣地に「光耀山金厳寺龍王院」という領主遠山家の祈祷所があった。

足軽長屋跡

足軽の宿泊施設。足軽が城に出仕する場合、この長屋に立ち寄ることになっていた。

風吹門跡

二階が飼葉蔵として使われていた三の丸に通じる門で、実質上の大手門。

大矢倉跡

三階建ての最大の矢倉で、一階は三方を石垣で囲まれ倉庫として使われていた。

大門跡

城内で最も大きな二階建ての櫓門で、二の丸と三の丸を仕切っていた。

綿蔵門跡

坂下門と大門の間の門跡。

坂下門跡

この門は二脚門となっており、坂道の下にあったので坂下門と呼ばれていた。

菱櫓門跡

地形に合わせて石垣を積んでいるので菱形になっている。櫓も菱形に建っていた。

本丸口門跡

本丸と二の丸の境となる門で、本丸への最終の門。

本丸玄関口門

天守台より一段低い位置にあり、玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれている。

本丸天守跡

天守は巨岩の上に懸造によって建てられ、三層となっていたようで、巨岩に彫られた柱穴を利用して、展望台が建てられている。

展望台からの眺望

展望台からは恵那山や木曽川周辺、中津川市街地を見渡せる絶景のスポット。

馬洗岩

天主台跡の南下にある周囲約45mの花崗岩質の大岩。かつて苗木城が攻められ、敵に水の手を切られたとき、この岩の上に馬を乗せ、米にて馬を洗い、水が豊富であるように敵を欺いたことに由来する。

御朱印蔵

将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状などの重要な文書や刀剣類が納められていた。

武器蔵・具足蔵

領主の鉄炮や弓などの武器蔵と、具足や旗が保管されていた具足蔵。礎石や縁石が当時のまま残されている。

千石井戸

城内の最高所にある井戸で、今でも水が湧き出ている。千人の用を達することからこの名が付けられている。

苗木城模型

苗木遠山資料館にて、当時の姿を再現した苗木城の模型が展示されている。建物はすべて板張りまたは土壁であり、「赤壁城」とも呼ばれた。