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二 条 城

 徳川家康が慶長6年(1601)に、京都御所の守護と、将軍上洛の際の宿所とするため築城に着手し、同8年(1603)には、ここで征夷大将軍の拝賀の儀式を行なっている。その後改築が行なわれ、寛永元年(1624)、3代将軍家光は、後水尾天皇の行幸を迎えるため本丸御殿と五重の天守が造られ、今日の規模となった。

 しかし、天守は寛延3年(1750)の落雷で焼失し、以後再建されなかった。天明8年(1788)には、市中の大火により本丸御殿と隅櫓が焼失した。

 文久2年(1862)、将軍家光の上洛に備えるため、二の丸御殿は全面的に修復、本丸にも仮御殿が建てられた。

 慶応2年(1866)には、徳川慶喜が15代目の将軍職を継いでいる。翌3年(1867)10月、慶喜は二の丸御殿の大広間において大政奉還を宣言。260年余り続いた徳川幕府はここに幕を閉じた。

 

東大手門(重要文化財)

 二条城の正門にあたり、現在の門は寛文2年(1662)頃の建築と考えられている。築城当時も現在のように櫓門(2階建て)であったが、寛永3年(1626)の後水尾天皇の行幸の際に天皇への配慮から一重の門に建て替えられたと云われている。

番 所

 徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる江戸から派遣された武士によって警備されていた。

東南隅櫓(重要文化財)

 外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建てられ、普段は武器庫として使われていた。今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の2つが残るのみである。

唐 門(重要文化財)

 二の丸御殿の正門にあたり、切妻造、檜皮葺の四脚門でその屋根の前後に唐破風が附いている。門には長寿を意味する「松竹梅に鶴と亀」や聖域を守護する「唐獅子」など豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾っている。

二の丸御殿(国宝) 

 東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に建ち並ぶ御殿。内部は狩野探幽たちによって、障壁画や天井画がで描かれている。大広間は慶応3年(1867)、15代将軍慶喜の時代に大政奉還を決定する会議が行なわれた場所としても有名。内部は撮影禁止。

二の丸庭園(特別名勝) 

 池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造り庭園。寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀遠州のもとで改修された。

釣 鐘 

 幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われていた。

本丸櫓門(重要文化財)

 入母屋造、本瓦葺きの櫓門。内堀に架かる東橋を渡って本丸に入る門。

本丸御殿(重要文化財)・本丸庭園 

 本丸は天守閣と共に江戸時代に焼失したので、明治26年(1893)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したもの。本丸御殿南側の本丸庭園は、明治天皇の行幸の際に、枯山水庭園から大改造した庭園。 

推定旧二条城の復元石垣 

 地下鉄烏丸線の建設工事に伴う発掘調査で、旧二条城(二条御所)の石垣の一部が本丸西側に移築復元されている。 

天守台と石垣 

 残されている設計図によると五重の天守がそびえていたが、寛永3年(1750)に落雷で焼失し、その後は再建されることなく、現在は石垣だけが残されている。 

天守台からの眺望 

 天守台上から見る北方向の内堀と西橋は絶好のビューポイント。 

清流園・香雲亭 

 京都の豪商・角倉家の屋敷跡から建築部材、庭石、樹木を譲り受け、昭和40年(1965)に作庭した和洋折衷庭園。 

西 門(埋門)(重要文化財) 

 寛永年間に造られたとされる埋門。大政奉還後、徳川慶喜が二条城を去る時にくぐった西門。 

西南隅櫓(重要文化財) 

 外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建てられ、普段は武器庫として使われていた。今ではこの西南隅櫓と東南隅櫓の2つが残るのみである。 

北中仕切門(重要文化財)

 本丸の北辺を東西に分ける、一間門・一重・招造庇付・本瓦葺きの門。 

加茂七石

 加茂七石とは、八瀬真黒石・鞍馬石・畑石・糸掛石・紅加茂石・紫貴船石・畚下石(ふぐろいし)を言い、これら七石が一堂に揃って見られる石庭。 

北大手門(重要文化財)

 北側にある大手門で、入母屋造りの本瓦葺きの櫓門。 

土蔵(西南)(重要文化財)

 二の丸に残る3棟(北、西北、西南)の土蔵の一つ。米蔵として使用されていた。 

土蔵(北)(米蔵)(重要文化財)

二の丸に残る3棟(北、西北、西南)の土蔵の一つ。米蔵として使用されていた。 

二条城冊子より。