HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

名所・旧跡めぐり

遺跡めぐり

小田原城(国史跡)
〜八幡山遺構群

 

 小田原城(写真左)の起源は古く、明応4年(1495)に、伊豆の北条早雲が八幡山に築いた大森氏の城を奪い、これより、5代、100年近く関東支配の拠点として城域が拡張されていった。

 八幡山付近一帯(現県立小田原高校付近)は、初期の小田原城の中心であったと考えられている場所で、主郭部は本曲輪、東曲輪、西曲輪、南曲輪、鍛冶曲輪、藤原平、毒榎平などで構成されていた。遺構として東曲輪の先の小峰御鐘ノ台のあたりには東堀(写真・本文)、中堀、西堀の3本からなる大堀が残っており、強固な防衛体制を築いていたのが窺える。

 永禄4年(1561)、上杉謙信に、また永禄12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、これを退け難攻不落の城と云われた。その後、豊臣秀吉の小田原攻めに備え、後北条氏は堀と土塁による総延長9kmの総構えを築くが、天正18年(1590)、5代氏直が豊臣秀吉との小田原合戦で、3カ月の籠城のすえ開城し、後北条氏は滅亡した。

 その後、徳川家康が関東に入り、家臣の大久保氏、阿部氏、稲葉氏の時代に、改修工事が行われ、近世城郭へと生まれ変わった。元禄16年(1703)の大地震で天守や櫓が倒壊、焼失し、天守はその後宝永3年(1706)に再建されたが、明治3年(1870)に廃城となり建物の多くは解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災により、ことごとく崩壊した。

 昭和35年(1960)に、市制20周年の記念行事として、3層4階の天守が復元されたのをはじめ、昭和46年(1971)に市制30周年事業として、常盤木門、平成9年(1997)に銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元され、現在小田原城址公園として一般に公開されている。

 毎年5月3日に、小田原北条五代祭りが開催されるが、今回、北条早雲公役に柳沢慎吾さん(同右)(小田原ふるさと大使)が出演し、馬上から観光客らに手を振りパレードを盛り上げていた。

 余談ながら、北条早雲(1432〜1519)は元(モンゴル帝国)が明に滅ぼされた時に、日本に渡来した元の陳外郎(ちんういろう)の子孫を京都から小田原に招き、今も昔通りの処方で作られている頭痛や胃痛などに効く漢方薬の「ういろう」は小田原の名物となっている。また北条氏は三浦半島に漂着した明人を厚遇し、唐人町(現浜町付近)という地名が残っているなど、積極的に対明貿易を行い、早くから外国に目を向けていた。

 

 小田原城(小田原城址公園)(国史跡)

 

北條早雲像

 小田原駅の西口ロータリーにある北条早雲公像は高さ5.7m重さ7tの日本最大級の銅像です。北条早雲の「火牛(かぎゅう)の計」をモチーフにしている。

 小田原駅から徒歩で10分、正面入口にあたる馬出門から入城、銅門(二の丸の表門)、常盤木門(本丸の正門)を経由して本丸に入るのが正規の登城ルート、徒中各所を見学しながら天守閣へと進む。

二の丸馬出門と堀に架かる土橋 

 正面入口にあたる二の丸正面に位置する門で、馬出門・内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造。馬屋曲輪へ通ずることからこの名がついたもので平成21年(2009)に復元された。

二の丸銅門

 二の丸表門。扉の飾り金具に銅を使用していたことから、銅門の呼び名がついたと言われている。当時の工法により平成9年(1997)に復原。

銅門土塀模型 

 銅門の再建にあたり、事前に制作された土塀模型。

伝銅門礎石 

 銅門で用いられていたと考えられている礎石。

狭 間 

 銅門城壁に開かれた穴が狭間。長方形の矢狭間一つに対して、三角形の鉄砲狭間二つの割合で並べている。

二の丸隅櫓  

 隅櫓は曲輪の隅に配置される櫓。大正12年(1923)関東大震災で石垣ごと崩落したが、昭和9年(1994)復興されたものである。江戸期のものに比して一回り小さい。

二の丸隅櫓  

 二の丸の内側より。

二の丸東掘

 二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中で、もっとも大きな物で、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続いていた。また、西は常磐木橋、南は南曲輪の前までつながっていた。現在の石垣は、大正12年の関東大震災で崩れたものを、昭和初期に復旧したものですが、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていた。

イヌマキ(市指定天然記念物)

 暖温帯林を代表する常緑の高木。幹囲4.5m、株元周囲約6m、樹高約20m、枝張り状況(東西南北)13m〜25m。

本丸常盤木門

 本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていた。周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持ち、常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえて、この名が付けられたと云われている。現在の常盤木門は、市制30周年事業として、昭和46年(1971)3月に再建された。

常盤木橋  

 二の丸から本丸を囲む堀を渡るために架けられた。

本丸東掘跡

 江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀と繋がる水掘りとなっている。


南曲輪南堀の大賀ハス

 大賀ハスは昭和26年(1951)に千葉市検見川の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前のハスの実から発芽、開花したハスです。植物学者の大賀一郎博士の手によって開花したこのハスは博士の姓を取って「大賀ハス」と名付けられた。

御感(ぎょかん)の藤(天然記念物)

 小田原城址公園内にある、樹齢約200年の藤。花房は1m余りにもなる。大正天皇が皇太子の頃に小田原の御用邸を訪れた際に花房の見事さに感嘆されたことから命名された。

報徳二宮神社

 二の丸小峰曲輪の一角に、二宮尊徳翁を祀る報徳二宮神社が建立されている。

二宮尊徳像

 報徳二宮神社境内にある薪を背負い歩きながら本を読む少年時代の銅像。二宮尊徳は江戸時代の農政家・思想家で小田原出身。

大久保神社

 大久保神社は、大久保忠世を祭神として、明治26年(1893)小田原城天守台跡に創建、明治28年には県社に列格したという。小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年に当地に遷宮した。

清閑亭(国の有形文化財)

 三の丸外郭土塁跡に建っている。黒田長成侯爵の別邸。福岡藩主黒田長友の長男として福岡に生まれ1884年に侯爵、30年間貴族院副議長を務めた。黒田官兵衛から数えて14代目の福岡藩主家当主にあたる。

金篦小路(かなべらこうじ)

 この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたと云われている。稲葉氏時代(一六三二〜八五年)、この地に藩の御細工所があった。後期大久保氏時代(一六八六〜一八七一年)には藩士の家が八軒ほど建っていた。


 八幡山遺構群(八幡山古郭)

 

八幡山古郭東曲輪歴史公園

 八幡山古郭は八幡山丘陵の尾根上標高69m付近の平坦部を中心とした戦国小田原城の遺構が集中している場所で、東曲輪の一部が歴史公園として整備されている。

東曲輪(国指定史跡)

 平成17年(2005)に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫などと考えられる方形竪穴状遺構や掘立柱建物跡が発見されたことから戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪の一つであったと考えられている。

西曲輪西堀・伝承 三味線掘跡

 県立小田原高等学校の周辺一帯を発掘調査の結果、学校敷地の各所で戦国時代の遺構、「西曲輪西堀」伝承「三味線堀」などの遺構が発見されている。

毒榎平(どくえだいら)

 この遺構は曲輪で、豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭(御鐘ノ台)成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は残されていない。

小峰御鐘ノ台大堀切東掘

 長さ280メートル、幅25〜30メートル、左右の土塁は50メートルほどの傾斜でV字型になっており、この空堀、土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。

東曲輪から見る小田原城天守

 東曲輪から東に見える天守閣。小田原城本丸と石垣山城とはわずか3kmの近さにあった。

史跡石垣山

 東曲輪からは、西方(右方山上)に天正18年(1590)の小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣を据えた石垣山一夜城を望むことができるという。