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大岡川沿いを歩く

 

 大岡川(写真左黄金橋付近)の源流は、横浜市磯子区の円海山(153m)周辺に広がる氷取沢市民の森に発し、上流域では笹下川として流れ、源流から7kmぐらいの港南区関の下付近の笹野橋で笹下川と日野川が合流して、港南区、南区を流れ、中区で横浜港に注ぐ全長14kmの河川です。

 今回の散策の出発点は河口の北仲橋。桜木町から日ノ出町・黄金町、真金町、吉野町、蒔田、弘明寺、上大岡を経て、源流域の指標(同右)を目指す大岡川沿いを辿る川旅です。旅と云っても、長旅や遠出ではない。地元横浜の中心部を流れる河川の散策であるが、何より準備が足りなくても気軽に動けるのが近場の街歩きの醍醐味です。 

  ここで、横浜の歴史をひもといてみると、およそ350年ほど前、横浜市中区と南区あたりは「入海」であったが、吉田新田(1856〜1667年完成)の開墾によって、入海に流れ込んでいた大岡川は新田の周りを取り囲むように、戸部沿いが現在の大岡川本流、中村沿いが中村川、中央が中川に分かれ誕生します。

 その後、横浜新田(1804〜1817年完成)、太田屋新田(1850〜1856年完成)が開発され、大岡川河口部の入海に成立した新田が次第に水田から都市化が始まり、横浜港に注ぐ大岡川は横浜の水運にとって重要な役割を果たしていました。

 時を経て、戦後の河川は陸運にとって代わられ、河川の多く(富士見川、桜川、日の出川、新富士見川、吉田川、新吉田川、派大岡川)は姿を消して、当時の面影を残すものは少なくなっているが、河口付近に残る灯台発祥の地、石積護岸や船着き場跡をはじめ、運河の痕跡やゆかりの寺社、黄金町で最新のアートに出会い、源流域の氷取沢市民の森では豊かな自然を感じながら、大岡川沿いの散策を楽しんでいます。

 追記

  

  2020年11月14日・15日の両日に渡って、大岡川の「横浜日の出桟橋」と中村川の「石川町仮設桟橋」を発着点にして周遊船が運航するイベントが行われ、歴史ある橋や川辺の風景を楽しんでいた。この行事は今年で8回目となるが、横浜港に注ぐ大岡川下流域の運河を舞台にして、新たな観光と人・物を運ぶための水路を活用できないかと取り組んでいると云う。

  昭和50年代まで横浜港の水運を支えてきた運河群の多くは公園や道路に変わり消えてしまっているが、川沿いを歩くと様々な痕跡に出会う。今回の取り組みを通して運河から見る横浜らしい景色が再生することを心待ちにしている。

 

 桜木町付近

灯台発祥の地・「旧灯台寮護岸」

 明治政府に招かれた英国の土木技師リチャード・ヘンリー・ブラントンらにより、明治2年に灯明台役所が設置され、その後全国に造られていった。今は駐車場になっているが、北仲通・海上保安本部跡地に、明治期の護岸が現在も残されている。

記念碑

 「洋式試験灯台」の基礎として使用した当時のレンガをその証として説明板左横に記念碑として設置している。

R・H ブラントンの胸像(横浜公園内)

 灯台の建設に関わったR・Hブラントンの胸像が横浜公園内に立っている。それだけでなく、防火道路としての日本大通りや横浜公園の設計を行うなど横浜の町づくりに大きな足跡を残した。(一足のばして)

弁天橋

 現在の橋は昭和51年(1976)に完成した4代目で、4ヶ所の親柱は全て異なった意匠になっているのが特徴的である。弁天橋の名は洲干弁天社に由来する。

大岡川夢ロード

 北仲橋から弁天橋にかけて、水辺のウッドデッキが整備され、憩いと交流の場になっている。

大岡川河口護岸・荷揚場(土木遺産)

 大岡川河口周辺は明治時代には日本波止場に近く、横浜駅舎(現在のJR桜木町駅)は陸運の拠点でもあり、港都の要所として風格ある景観を呈していた。 ここに明治初期、英国人技師プラントンの設計により石積護岸が整備された。この大岡川右岸の護岸には、水運形式をもつ橋台などがあった、大変貴重な施設群である。  明治時代の階段、荷揚場といった構造物は、一部補修・復元されたものもあるが、首都圏でここに唯一残されたものであり、ウォーターフロントの先駆的な遺産としても価値のあるものである。<解説板より転載>

 後方の白い防護壁で囲まれている敷地が、平成32年(2020)完成予定の横浜市新市庁舎の建設予定地。防護壁には完成予定写真などが飾られている。

北仲通大岡川下水口(土木遺産) 

 関内外国人居留地一帯には、横浜の下水道の発祥として明治初年、英国人技師プラントンの計画により陶管下水道が施設されていたが、明治14年(1881)から煉瓦造に改める工事が三田善太郎の設計により着手された。幹線は大・中・小のコンクリートを巻いた煉瓦造卵型管で、要所に煉瓦造のマンホールや洗浄桝、人造石による雨水桝や汚水桝が設置された。これらの施設のうち、中下水にあたる煉瓦造卵形管は中区山下町内の各所で発見されている。 この下水口も明治14年(18881)から着手された、館内石造下水の排水口と判断される。 <解説板より転載>

特大広告 

 宇徳ビルの白い壁を利用して描かれた横浜DeNAベイスターズの筒香選手の特大広告。横浜市野外広告物条例により、広告物の表示面積は外面の面積の3割以下に抑えられているため、全身が描かれていない。


 都橋・日ノ出町・黄金町・長者町付近

都橋・親柱 

 昭和3年(1928)竣工の震災復興橋。この親柱は勧業共進会正門の前(南区蒔田町)に架かっていた共進橋のものがこの場所に移設され復元された。元の意匠と形状は異なっているが、アール・デコ様式の意匠が特徴的である。

都橋商店街

  昭和39年(1964)の東京オリンピックを前に、風紀、美観上の観点から、戦後の闇市として栄えた野毛地区の露天商たちを収容するために急遽造られた歴史ある商店街。現在は2階建ての飲食店ビル、約60店舗入っている。

川辺からの都橋商店街ビル

 川辺にせり出して建っている建築物は、大岡川の代表的な景観の一つで、平成28年(2016)横浜市歴史的建造物に指定された。河川側は改修工事中の為見えないが、1階と異なり、2階の正面は川に面した造りになっている。

野毛の夏祭り

 神輿、山車が威勢良く町内を練り歩き、盛り上がっている。

吉田家大井戸跡

 長者橋袂の屋敷跡地に初代の吉田勘兵衛が萬治年間(1658-1660 年)に掘っ たと言われる大井戸が今も残っている。水質に優れ、200 年にわたって、付近住民の飲料水等に使用されたが、昭 和 20年(1945)に進駐軍によって埋められてしまった 。

清正公堂

 吉田勘兵衛が、新田守護のため、1676(延宝4)年に長者町8丁目に、自性院日身上人を招いて栄玉山常清寺を建立した。横浜大空襲で常清寺は焼失し、現在の南区清水ヶ丘に移転したが、常清寺の境内の清正公堂は吉田勘兵衛の住宅跡地に建立され、今も信仰の対象になっている。

長谷川伸生誕の地碑

 日ノ出町の長者橋(昭和3年竣工の震災復興橋)の脇に石碑と説明板が建っている。明治17年(1884)、横浜・日ノ出町で生まれた小説家・劇作家である。 家庭の事情で、少年期、横浜船渠の工事現場、土方、石工として働いたことがある。主な作品は「瞼の母」「一本刀土俵入り」「荒木又右衛門」「沓掛の時次郎」「よこはま白夜」「日本敵討ち異相」など、「日本捕虜志」で第4回菊池寛賞を受賞。

黄金橋と大岡川全景

 遠方に見える黄金橋(昭和3年竣工の震災復興橋)は、長谷川伸の伯父が建設資金として多額の資金を拠出したということで、この橋に後々まで愛着を持っていたという。

日ノ出湧水

 野毛山(成田山別院の境内地?)の裾野に位置する日ノ出町周辺は、自然の湧き水に恵まれていた。ただ湧水自体は水質不良のものもあり、水量は絶対的に不足していた。開港以来、埋立地である横浜では飲用に適した井戸は2か所(町会所裏、現在の横浜市開港記念会館と三井組、旧三井物産横浜支店)のみで、湧水が利用されていた。

水上スポーツ

 Eボートで水上レジャーに興じている姿が見える。

黄金町バザール2017

 ここには嘗て、数多くの売春宿があったという。今では地元住民の絶え間ない環境浄化活動により、秋にはアートフェスティバル「黄金町バザール」が黄金町駅・日ノ出町駅間の高架下ほかで行われている。

屋内の作品

 今では昔の売春宿はスタジオに代わり若手アーティストたちの作品が数多く出展されている。

屋外の作品

 若手アーティストたちの作品が数多く屋外でも出展され、アートに惹かれ訪れている人が増えたという。

太田橋

 昭和3年(1928)竣工の震災復興橋。親柱に時代劇に出てきそうな金属製(木造ではないが)の常夜灯が立っている。北西へ、藤棚浦舟通りを進むと、国道1号線へとつながる。


 真金町・阪東橋付近

永真遊郭 

 港崎遊郭(現在の横浜スタジアム)は大火で焼失、転々と場所を変え、明治13年(1880)に永楽町に移転し真金町と併せて永真遊郭として存続したが、昭和33年(1958)、売春防止法の施行と同時に消えた。

 

港崎遊郭

 横浜開港に伴い、太田屋新田の沼地がさらに埋め立てられ、港崎町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。横浜 公園内には、現在も岩亀楼の石灯籠が残されている。

金刀比羅・大鷲神社

 遊郭とともに真金町へ移転してきた。金刀比羅神社の境内社である大鷲神社で、例年数百の提灯を掲げ、酉の市が開催される。

横浜橋商店街

 横浜三大商店街の一つ。全長約350mに約130店が軒を連ね、多くの人で賑わっている。


 吉野町付近

お三の宮 日枝神社 

 お三の宮の愛称で親しまれている日枝神社は吉田勘兵衛により、吉田新田の鎮守として寛文13年(1673)に創建された。9月の例大祭には横浜随一の神輿が氏子町内を練り歩く。

堰神社 

 日枝神社の境内地にある堰神社は吉田新田の用水堰の守り神として建てられた。堰が咳と同音であることから咳の神様として広く親しまれている。

堰神社の陰陽石  

 堰神社の境内には、陰陽石(写真)、道祖神、庚申塔などがある。 

道慶橋と親柱

 昭和2年(1927)竣工の震災復興橋。親柱の彫刻は、彫刻家・澄川喜一の作品。澄川は東京スカイツリーのデザイン監修や東京芸術大学長も務めた。

道慶地蔵尊 

 明暦元年(1655)、雲水僧道慶師が立寄り、附近住民の難儀を見聞し、万治元年独力にて橋を造り両岸住民の難渋を救った。道慶師没後その遺徳を偲び両岸の住民有志相計り同橋を道慶橋と名づけ 師の信仰せる地蔵尊を道慶地蔵尊としてお守りし今日に至る。

道慶橋近くの荷揚場の跡

 昔はここに船を着けて、人や物が乗り降りしていた。大岡川にはかつての荷揚場が方々にあった。

一本橋と欄干

 昭和3年(1928)竣工の震災復興橋。「人」という字を描いている欄干は彫刻家・澄川喜一のデザインによるもの。

富士見公園

 かつての新富士見川は富士見公園となり、公園の名に残されている。

橋の名が刻まれた石のモニュメント

富士見川公園内に、かつての三つの川の橋の名前(駿河橋・南吉田橋・万治橋)が刻まれた石のモニュメントがある。


 蒔田付近

蒔田公園

 大岡川が中村川と分岐するところに蒔田公園がある。吉田勘兵衛が慶長16年(1611)に大岡川河口部の入海に開発したもの。

大岡川と中村川との分派点

 蒔田公園橋下流で、左側に大岡川、右側に中村川が分かれ流れていく。当初は中村川は石川町付近で大きく曲がり派大岡川となり、元の大岡川につながる。

蒔田城跡(横浜英和学院)

 勝国寺裏山、現在の横浜英和学院校が立つ丘一帯は吉良氏数代の城のあった蒔田城の場所とされる。城の形は土塁や空濠をめぐらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものである。

吉良氏の菩提寺・勝国寺

 寺の由来は、1479(文明11)年に吉良政忠が父の供養のため開基建立したとある。開山は武蔵国一帯に禅風を挙楊した天永琳達大和尚。元禄時代には、諸堂伽藍、鐘楼等を配していた時代もある。

宝生寺

 平安時代末期の承安元年(1171)に覚清法印によって創建された。鎌倉・室町時代には、平子氏一族の菩提寺として栄えた。さらに、江戸時代には末寺約50の寺をもって、地方有数の大寺院に発展した。多くの古文書を所蔵しており、「横浜」の地名が出てくる最も古い嘉吉2年(1442年)の文書が残されている。

 


 弘明寺付近

弘明寺観音(真言宗)

 横浜市内最古の寺院。大同4年(809)に弘法大師が伽藍を建立、開基したと伝えられている。坂東33か所の14番の札所であり、市内観音第33番目の霊場である。本尊の木造十一面観音立像は国の重要文化財。毎月8のつく日は、本尊の縁日で護摩行が行われる。

弘明寺商店街

 弘明寺の門前にまっすぐ延びるアーケードのある商店街で、下町の賑わいを残している。


 上大岡付近

最戸橋

 弘明寺から上がって、鎌倉街道新道と旧道が交差する地点に架かる大岡川の最戸橋、前方に昭和5年(1930)に造られた鉄橋が架かり、京浜急行の赤い電車が見える。

「大岡川プロムナード」

 最戸橋から大久保橋、久保橋へ遡る辺りは、川沿いに「大岡川プロムナード」が続いており、散策を楽しめる。

青木橋

 中流域の青木橋付近では、釣りをして遊ぶ子どもたちの光景が見られる。

青木神社

 青木橋の袂にある神社。もと、久保、最戸から弘明寺、井土ヶ谷まで広い地域の村々の総社だった。

 当時の大岡川は、水温、水深が捺染の水洗いに適していたため、スカーフ製造をはじめとした捺染業が栄えた。狛犬像の台座には、大久保地区の捺染業者11社名が奉納者として彫られている。

捺染業者(染色業者)

 横浜の地場産業の一つ、横浜スカーフの製造・捺染業者が大岡川沿いの南区・港南区に立ち並び、川の水を赤や青で染めていたという。1970年代のピーク時には、製造工場、捺染工場、兼業併せて100数社近くに上った。今では、多くは撤退あるいは地方に工場を移し、数社しか残っていない。

日野川・大岡川合流点

 青木橋から少し遡ると、大岡川は日野川と合流する。大岡川のこの地点から上流部分は笹下川(左)と呼ばれ、右側は日野川、前方に笹野橋が見える。

河口から7.3km地点の標識

 大岡川と日野川との合流点近くに建てられた河口から7.3kmの標識。

 


 笹下付近

 青木橋から笹下川に沿って走る旧道「かねさわ道」を遡ると、やがて右側に横浜刑務所が見える。さらに旧道を進み、笹下郵便局の角を右折すると巨大な大岡川分水路が現れる。最寄りの日下小学校前でバスに乗車し、氷取沢市民の森へ向かう。

横浜刑務所

 上大岡駅から南に約1km、笹下川沿いにある。笹下刑務所とも呼ばれる。毎年11月頃「矯正展」が開かれている。

高い塀の刑務所

 内部は高く長い塀で囲まれている。塀の上部にはネットのようなものが見える。

大岡川分水路(起点)と水門

 日野川と大岡川の洪水を防ぐため、巨大なトンネルで両川から距離的に近い根岸湾へ放流する施設。奥に水門。右側に根岸湾に続くトンネルの入口がある。施設はトンネル及び開水路総延長3.64kmで、昭和44年(1969)に着手、昭和56年(1981)に完成した。

 この付近はかつて「川嶋」と呼ばれ、取水底建設に伴い消えてしまったが、橋名として残っている。

大岡川分水路(中間地点)

 複雑な構造になっているので、どのように機能しているか気になるところである。

笹下川

 大岡川の上流部の笹下地区では笹下川と呼ばれている。笹下川をきれいな川にしようとみんなで清掃活動が行われている。正面に見えるのが日下橋。

笹下城跡

 小田原北条氏20将の一人、間宮豊前守信元が天文年間(1532〜54)笹下町一帯と洋光台地に自然の地形を利用した山城を築き、房総の里見軍に対する守りに努めた。

寄り道:日野川

 源流域の港南台付近に近い、日野・新橋付近を流れる日野川。 


 大岡川源流(氷取沢市民の森)

 大岡川の源流域へのコースは日下小学校前からバスを利用し、氷取沢市民の森で下車。氷取沢神社に詣でて、住宅街の中を道なりに急坂を上ると、「氷取沢市民の森」の入口のふじづか休憩所〜円海山(標高153m)<大平山(天園)<159.4m>、大丸山<158.9m>に次いで横浜第3位の高さを誇る。>〜電波中継所〜いっしんどう広場〜富士見百景〜氷取沢分岐〜大岡川源流域小川アメニティ(水路)〜おおやと広場〜おおやと休憩所〜氷取沢小川アメニティ(水路)〜氷取沢農業専用地区までの尾根道、遊歩道を自然を感じながらゆっくりと歩けるコースです。

 源流域となる大岡川源流域小川アメニティから湧き出た一筋の水は水量を増して、氷取沢小川アメニティとなり、上流域では笹下川として流れ、笹下釜利谷道路に沿って上大岡方面に流れ、港南中央付近の笹野橋で日野川と合流して、大岡川と名前を変え横浜湾に注いでいる。

氷取沢神社

 氷取沢神社の創建年代等は不詳ながら、荒神社と称して江戸期には氷取沢村の鎮守社だったといいます。明治維新後村社に列格、明治45年栗木神社に合祀されたものの、昭和22年当地に還座したという。

東京ガス円海山無線中継所

 ふじづか休憩所から緩やかな尾根道を進み、東京ガス円海山無線中継所→NHK円海山FM放送所へ。

NHK円海山FM放送所

 NHK円海山FM放送所から更に緩やかな尾根道を「いっしんどう広場」を目指して進んでいく。

いっしんどう広場

 「いっしんどう広場」に到着。この広場の付近がかつての一心堂跡です。

富士見百景展望

 この展望台からは視界が良ければ富士山が眺められる。

氷取沢分岐

 瀬上市民の森とおおやと広場・氷取沢へ降る道との分岐です。 「おおやと広場」へ谷筋を下りていく。

緩やかな階段

 少しすると緩やかな横木の階段が現れる。

木道の遊歩道

やがて谷筋に木道の遊歩道が続いている。

大岡川源流域の指標

 今回のハイライト「大岡川源流域」の指標にたどり着く。

源流域その1

 シダに囲まれた川筋が見える。

源流域その2「おおやと広場」へ

 やや下ると、地形に合わせて蛇行しながら少しずつ水量を増して、「おおやと広場」に流れ下っていく。

源流域その3「氷取沢小川アメニテイ」へ

 「大岡川源流域アメニテイ」から「氷取沢小川アメニテイ」となり、氷取沢農業専用地区の縁を通って、氷取沢神社境内の赤い神橋の下を流れ、笹下川となり、笹下釜利谷道路に沿って上大岡方面に流れていく。

特区農園

 特定農地貸付法に基づき開設された市民利用型農園。道路沿い400Mに渡って毎年秋には色とりぞりのコスモスが咲いている。