大手口に見る櫓
大手前の馬場から大手口に向かう上り坂に見える、右側の櫓が多聞櫓、その左が千貫櫓。 |
大手門(重要文化財)
今の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築時に建てられたもの。 |
多聞櫓(重要文化財)
大手門の内側、巨石を多用した石垣の上には多聞櫓が建つ。嘉永元年(1848)の再建で、国内に現存している多聞櫓の中でも最大規模である。 |
千貫櫓(重要文化財)
元和6年(1620)、徳川幕府による再築が始まった年の建設で、大坂城に残る最古の建築物である。工事責任者は茶人として名高く、造園や建築に才能を発揮した小堀遠州が務めた。 |
大手口枡形の巨石
大手見付石(城内第4位)、大手2番石(第5位)、大手3番石(第8位)が使用され、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。 |
船で運ばれた巨石
船に積めないほどの大きな石は、筏に乗せたり、二艘の船の間に吊ったり,多数の空樽を縛り付けて浮力つけ、小舟で曳いて航行させたりもしたと、詳しく説明を受け大坂城の魅力を改めて感じた。 |
天守下仕切門跡
二の丸には各区画を仕切るための石組みが5個所あり、その一つ。そにため、本丸へ続く重要な通路には容易には入れないようになっている。 |
南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸は西側と南側とが南仕切門によって区切られ、西側の石垣の上には二層の太鼓櫓(太鼓で時刻を告げていた)があった。 |
本丸御殿跡
本丸には天守のほか、政治を行なうための御殿があった。 |
本丸桜門(重要文化財)
徳川幕府の創建になる本丸の正面にあたる、桜門は戊辰戦争時に焼失。陸軍が明治20年(1887)往時の様式にのっとり再建した。豊臣大坂城の本丸正門はやや西寄りにあったが、やはり桜門と呼ばれていた。門の両脇の石は竜虎石と呼ばれる。 |
蛸 石
桜門を入って正面に見えるのが、城内第一の巨石「蛸石」。高さ5.5m、幅11.7m 、表面の面積は畳にして39枚分、重さは推定130トン。大坂から約120km離れた瀬戸内海の犬島(岡山県)産の花崗岩である。桜門脇の竜虎石と同じく、雨が降ると石の表面にタコの姿が浮き出ると云われた。 |
銀明水の井戸の井筒
徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの1つで、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。 |
大阪豊国神社
明治12年(1879)、京都市の豊国神社(とよくにじんじゃ)の別社として、市内で二度の移転の後、当地に創建された。豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀っている。鳥居をくぐるとすぐに秀吉公の銅像がある。 |
金 蔵(重要文化財)
江戸時代、幕府が金貨や銀貨を保管した倉庫。宝暦元年(1751)の築造で、幕府の金蔵としては現存唯一の遺構。 |
金明水井戸(重要文化財)
豊臣秀吉が水の毒気を抜くために沢山の黄金を沈めたという伝説があったが、じつは徳川幕府再築時に掘られたもの。井戸を覆っている建物(屋形)は寛永3年(1626)の創建当初からの古建築。 |
ミライザ大坂城「旧陸軍第4師団司令部庁舎」
本丸広場に建つ,歴史的建造物の旧第四団司令部庁舎を改修した食事などが出来る複合施設。 |
本丸石垣と天守
本丸石垣は寛永元年(1624)の第2期天下普請で築造された。この高石垣と水堀の景観は徳川幕府の威信を余すことなく伝えている。 |
城内5Fの大坂夏の陣図
大坂冬の陣の豊臣方(真田幸村・真田大助・大野治長・毛利勝永ら)は徳川方(前田利常・井伊直孝・本多忠朝・松平忠直ら)の攻撃を一蹴し、一時休戦へ持ち込んでいく一幕がパネルや映像で再現されている。 |
展望台
最上階の展望台からは歴史の舞台を一望できる。天守に輝く金の鯱と云えば、名古屋城、熊本城とともに日本三名城と云われている。 |
残念石
切り出されたものの、残念ながら石垣に使用されなかった石を、小豆島青年会議所と大阪青年会議所の共同事業として、小豆島からこの地に運び込まれ天守閣前に展示されている。 |
天守閣石垣の被弾痕
米軍の空襲による被弾痕が2ヶ所遺されている。1ケ所は天守閣石垣の北東角で、昭和20年(1945)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣北東がゆがんだ。 |
山里丸・刻印石広場
豊臣期の本丸北部は樹木を茂らせ、山里の雰囲気を再現した風雅の空間だった。ここに秀吉は賓客を招き、茶を千利休に点てさせたり,自身でたててもてなした。また、ここで正妻おねが淀殿らと共に観桜の宴に興じたこともあった。
石垣用に運ばれた石の中には築城に参加した大名の家紋など、記号や文様が刻まれた刻印石を6つのグループに分類されて山里丸内に展示している。 |
堀尾氏の紋・分銅紋の刻印石
松江城築城者の堀尾家が使用した分銅紋。この分銅紋は松江城出土の瓦や石垣に見ることが出来る。 |
豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
元和元年(1615)の大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里にあった櫓に潜み、自害した伝えられている。 |
山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。 |
極楽橋と内堀
秀吉は慶長元年(1596)、明皇帝からの使節を迎えるに当たって巨費を投じて本丸堀に豪華な極楽橋を建設させた。徳川期にもほぼ同じ場所に木橋があり、同じ名前で呼ばれたが、戊辰戦争の大火で焼失。今の極楽橋は昭和40年(1965)、鉄筋コンクリート造りで再建された。 |
青屋門
二の丸の北東部、鬼門に当たる方角に建つ。江戸時代には普段は閉ざされ、出入りできなかった。戊辰戦争及び第2次世界大戦で被害を受け、今の門は昭和44年(1969)の再建。 |
梅林(市正曲輪)
二の丸東部、大坂城梅林の地には、豊臣秀頼の重臣だった片桐且元の屋敷があった。且元が東市正の官職に任じられていたことから、この一画は「市正曲輪」と称された。徳川期の市正曲輪には勤番大名たちの官舎が並び建っていた。 |
蓮如上人自筆の石碑
蓮如上人自筆の六字名号(「南無阿弥陀仏」)を刻んだ石碑が建てられるなど、石山本願寺時代の記憶を留める史跡として保護されている。 |
六番櫓(重要文化財)と南外堀
石垣上には東から順に一番櫓から七番櫓まで、七棟の櫓が建っていた。戊辰戦争と第2次世界大戦により5棟が焼失、一番櫓と六番櫓が現存している。二の丸の南に位置する堀の総延長は約2km、最大幅は約75mという壮大なもの。 |
三の丸
大阪府庁、大阪府警察本部、NHK大阪放送会館などが三の丸にあたる場所である。最上階の展望台の案内板より
大坂城史跡探訪より抜粋 |
これを機会に、真田丸の舞台になった地に足を運ぶことにした
真田山公園
慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際に真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城で、徳川軍を迎え撃った古戦場と云われている。 |
大阪明星学園グランド/真田丸顕彰碑
真田信繁(幸村)が大坂冬の陣で築いた大阪城の出城「真田丸」があった地とされている。冬の陣後の講和条件によって破却された。
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心眼寺・真田幸村出丸城跡
元和8年(1622年)、真田信繁(幸村)、幸昌(大助)親子の菩提を弔うために建立された由緒ある寺院。入口には、大坂冬の陣の際に真田幸村が築いた出城「真田幸村出丸城跡」の碑がある。 |
心眼寺境内・信繁之墓
2014年10月に、ようやく「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」として、心眼寺内に建立されることになった。山門扉には真田家家紋の六文銭が刻まれている。 |
心眼寺から見る高低差
大阪城に向かって巾200m、城まで1.5kmの下り坂(寺の名前から心眼寺坂という)になっているのが空堀の痕跡(ブラタモリで取り上げていた)、但し空堀が直線的で、敵に攻略されやすいので真田丸を築き、大坂冬の陣では徳川軍を迎え撃ったと云う。
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どんどろ大師(善福寺)
大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと云われている。
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