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信玄公ゆかりの地めぐり

 

 甲府市は1519年に戦国武将・武田信玄の父・信虎が甲州府中(甲府)の躑躅が崎に開府してから、2019年で「開府500年」の節目の年を迎えた。武田氏滅亡後も、甲府城が築城されるまでの間、舘を中心にして、計画的に町づくりを進め、甲府城下町は発展、繁栄を遂げてきた。

 先ず武田家の歴史が感じられるところと云えば、舘跡に立つ武田神社、境内には当時の堀や石垣が残っている。足をのばせば、恵林寺や甲斐善光寺などの寺院をはじめ、治水事業に力を入れ20年がかりの大事業「信玄堤」の築堤など、信玄公のゆかりの地が山梨県内に点在している。タイミングが合えば、甲府の町を甲冑を着けた武士らが街を練り歩く4月7〜9日の「信玄公祭り」を楽しめる。

 山梨に訪れるなら、名水の里は外せない。白州蒸溜所に立寄り、一息ついて後、美しい名水を求めて北杜市の甲斐駒ヶ岳に端を発する尾白川渓谷と八ヶ岳を水源とする川俣渓谷まで足をのばし、清流の里でリフレッシュした。

 

 

 

 武田神社周辺

 

武田神社(躑躅ケ崎舘跡)

舘の主郭部分に建つ、甲斐の名将・武田信玄を祀っている神社。信玄の父信虎が永正16年(1519)に築いた舘で、武田家の信虎、信玄、勝頼と三代の本拠となった。跡地には当時からの主郭(東曲輪・中曲輪)、西曲輪、北曲輪、堀、土塁、石垣、古井戸などの遺構が今も残っている。

宝物殿

舘の主郭部分に建つ、武田神社境内にある「宝物殿」。武田二十四将図(甘利、小山田、原、馬場、高坂、板垣、飯富、山県など)、風林火山の孫子の旗、武田家に伝わる鎧や太刀・扇などが展示されている。

大手門

東側にある大手口が舘の正門となっていた。

水 堀

主郭部分の周囲は深い水堀に囲まれていた。山裾に築かれている地理的環境から堀の南半分には水が張られていたが、北側は空堀になっていた。

土 塁

堀、土塁などの遺構が今も残っている。

石 垣

大手口付近に残っている土塁と石垣。 

名水「姫の井戸」

信玄公ご息女誕生の際、産湯に使用されたことから名付けられた名水「姫の井戸」が残っている。

水琴窟

 竹筒に耳をつけると琴の音にも似た音色が響いてくる。


円光院

甲府五山の一つ。信玄の正室三条夫人の墓所。夫人は公家の名門・三条家の娘で16才で甲斐に嫁いだ。

信玄公の墓所(甲府市岩窪町)

天正元年(1573)4月12日、信玄は信州伊那駒場で53才の生涯を閉じる直前、混乱を避けるために3年の間その死を隠すことを遺言、その間この場所に葬られていた。この命日には武田二十四将騎馬行列、4月上旬には信玄公祭りが盛大に繰り広げられる。

護国神社

江戸時代、柳沢吉保の菩提寺である竜華山永慶寺があった場所。この永慶寺の山門が大泉寺の総門として移築されたと伝えられている。


 積翠寺・甲斐善光寺・東光寺周辺

要害山への登山口

山梨百名山の一つで、かつては山頂に武田信玄の父信虎が築いた山城(780m)があり、武田家の遺構が数多く残っている。武田家三代にわたり躑躅ケ?舘の背後の詰城ともなっていた。

積翠寺

要害山の麓に立地する臨済宗寺院・積翠寺において信玄公が誕生したと伝えられている。

甲斐善光寺本堂(国指定重要文化財)

川中島の合戦による信州善光寺への被害を恐れた信玄公が永禄元年(1558)本尊の阿弥陀如来や銅鐘、仏具などを移して建立。本堂床下ではお戒壇めぐりが出来る。東日本最大級の木造建築物。

山 門(国指定重要文化財)

1767(明和4)年築。1754(宝暦4)年に門前の失火により全焼し、1796(寛政8)年に再建されたもの。門の両側には未完成の金剛力士(仁王)が安置されている。

阿弥陀堂

扉が固く閉じられているが、木造阿弥陀如来像(重要文化財)が安置されている。

鐘楼堂(県指定文化財)

梵鐘は鎌倉時代の作で、武田信玄によって信州善光寺より、本尊その他とともに移された。

東光寺仏殿(国指定重要文化財)

甲府五山の一つ。13世紀の鎌倉時代に中国の名僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)により開山された臨済宗の寺院。信玄の長男、義信の菩提寺である。義信は謀反の罪により東光寺に幽閉されたまま没した。

東光寺庭園(県指定名勝)

中世の庭園様式と手法を踏まえ、禅の精神世界の造形美が演出された名園で、蘭渓道隆による作庭との伝承がある。


 塩山周辺・恵林寺

乾徳山 恵林寺

元徳2年(1330年)、臨済宗の僧の夢窓国師の開山。信玄公の菩提寺として知られている。

総門(黒門)

薬医門形式の門で、黒一色で塗られている。

四脚門(赤門)(国重要文化財)

織田信長による焼き討ちの後、徳川家康によって1606年に再建された。

三 門(県文化財)

1582年、武田氏を滅ぼした織田信長の軍勢が、武将や僧侶など恵林寺にとどまっていた全員を山門に押し込めて火を放ち、百名以上の人々が犠牲になったのがこの場所です。

開山堂

 夢窓国師、快川国師、末宗和尚の三像が安置されている。

仏舎利宝塔(納骨堂)

1973年(昭和43年)の建立で、境内の建物の中では新しい。

うぐいす張り廊下

明王殿にある、外敵の侵入を阻む「うぐいす張り廊下」。廊下を歩くと、うぐいすの啼くような音が聞こえる。

方丈庭園(国指定名勝)

夢窓国師の築庭となるお中心に築山、滝、石などが配された池泉回遊式庭園。

大庫裏

織田信長の焼き討ちの後、徳川家康によって再建された。その後明治38年の火災で殆ど焼失するが、現在の庫裏は明治末期に再建されたもの。

「風林火山」屏風

庫裏の玄関に入ると「風林火山」の屏風が目に飛び込んでくる。この「風林火山」は、信玄の軍旗に書かれていたとされる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の文字の頭文字です。漢文で書かれているこのフレーズは以下のように読みます。 ・疾(はや)きこと風の如く・徐(しず)かなること林の如く・侵掠(しんりゃく)すること火の如く・動かざること山の如し

武田信玄公訓言の石碑

大庫裡の入り口には「武田信玄公訓言」「およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す。その故は五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故、たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり」と書かれた石碑が立てられている。時を超えて現代にも人生に様々な示唆を与えてくれる名言である。

「甲斐八景」恵林晩鐘の歌碑

外山前中納言光額卿 「静かなる夕の鐘の声聞きてみれば心の池もにごらず」。甲府藩主だった柳沢吉里が「近江八景」(現在の滋賀県)にならい、山梨県内で選んだ8 か所の名勝地を詠んだ歌の一つ。

武田信玄公墓所

1573年、53歳で亡くなった信玄公はここで眠っている。奥に見える二基が信玄公の墓。この後ろには、武田二十四将を含む武田家臣の供養塔が約70基並んでいる。通常非公開 毎月12日のみの特別公開

柳沢吉保・夫人墓所

信玄を篤く尊崇した柳沢吉保も夫人とともに祀られている。柳沢家は甲州出身、武田氏滅亡後、徳川家に仕え綱吉の小姓から最高実力者にのし上がった。


 竜王周辺

信玄堤

武田信玄公が築いた日本最古と言われる治水施設「信玄堤」。1560年(永禄3)前後に築かれたと言われる堤防(3km)で、甲府盆地に流れる暴れ川の釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の合流地点の竜王の辺りで、川の流れを制御して、下流の村々を守るもので、現在でも治水機能を果たし続けている。

信玄堤と聖牛

水の勢いを弱め堤防を守る工作物を作り、水流の激しい箇所に置いた。三角形の基の部分が牛の角のよう見えることから名付けられた。

築堤本陣跡碑

信玄堤整備の本陣が設置された場所を示す石碑。


 一足のばして(北杜の名水の里〜甘草屋敷)

尾白川渓谷・吊り橋

吊り橋の下には、甲斐駒ヶ岳を源とする美しい清流が流れる。花崗石に磨かれた名水は名水百選に選ばれている。

尾白川渓谷・旭滝

しぶきをあげて豪快に流れ落ちる滝。

サントリー白州蒸溜所

仕込み水には白州の名水を使う、シングルモルトウィスキー「白州」を生み出す森の蒸溜所。

ショップ

品添えが充実しているので、観光客で賑わっている。

川俣川渓谷

八ケ岳を水源とする川俣川、その渓谷美が美しい。

川俣川渓谷・吐竜の滝

 苔むした岩にぶつかり飛沫を上げながら流れる趣のある滝。その姿がまるで竜が水を吐くかのようでこの名がある。

旧高野家住宅「甘草屋敷」(重要文化財)

 江戸時代に、薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家で、甘草屋敷と呼ばれていた。

雛飾り

 主屋大広間に「享保雛」、「御殿飾り」などが展示されている。

主屋二階の棟持柱

 屋根を支える大きな柱が棟まで通っている。

甘 草

 屋敷内に設けられた甘草園に自生している甘草。甘草は甘味料や調味料として多く使われる一方、薬用として広く用いられている。