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白河小峰城〜

白河関跡め ぐ り

 

 

  寛政の改革を指揮した松平定信の居城・小峰城(写真左)は結城親朝が興国元年(1340)に、 小峰ケ岡に城を構えたのが始まりで、初代白河藩主丹羽長重が寛永9年(1632)に完成させた悌郭式の平山城です。松平定信を始め七家二十一代の居城となるが、慶応4年(1868)の戊辰戦争「白河口の戦い」により焼失、落城を経て、平成3年に三重櫓、平成6年に前御門が木造で復元されている。盛岡城、会津若松城とともに「東北の石垣造りの3大名城」と称されている高石垣の眺めは絶景である。

 東日本大震災(平成23年3月)後から3年経過した平成26年に訪ねた時は、未だ崩落した石垣10か所と修復が必要な4か所を合わせ14か所の石垣復旧工事中で、三重櫓への立入りは制限されていたので、小峰城を遠くに見ながら、白河の街中を訪ねた。白河駅、南側の大手門通りから旧陸羽街道(国道294号)に入ると、道が何か所か曲がっており、その街道沿いには町屋や寺院などが建ち並び、今も城下町らしい感じが残っている。

 三重櫓までの見学が平成27年(2015年)4月に可能となったので、平成29年に、再度訪れ、今しか見れない石垣の崩落した姿や修復状況などを、担当者の説明を聞きながら見学した。

 次に向かう先は、奥羽三関のひとつ、白河駅からバスに乗車し(一日2往復<土日祝>と少ない)山道を越え、「奥の細道」にも登場する白河の関。白河の関(同右)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに奥州三古関の一つで、奈良時代から平安時代に蝦夷や物資の往来を取り締まっていたとされ、古代や中世の遺構が残されている。芭蕉が訪れた当時は白河の関は廃絶されていたが、「歌枕」として多くの歌人の歌に詠まれ、歌心を誘う地となっている。

 旅を終えて、芭蕉の「奥の細道」【白河の関】の一節を読み返していますが、みちのくの関門・白河の関を経て、ついに長途の旅に本腰を入れるに至った胸中が私にも何ほどか感じ取れた気がしています。

「心もとなき日数(ひかず)重なるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ。、、、」

 

 

 白河小峰城(国指定史跡)

石垣修復状況(平成26年撮影)

 東日本大震災によって、三重櫓に亀裂が入り、石垣は10か所で崩れ、約7000個の石が落ちるなど大きな被害を受けた。小峰城の全体的な修理は2018年度内の終了を目指して修復工事が続いている。

その後の(平成29年撮影)

本丸高石垣修復状況

 前回は三重櫓への立入りは制限されていたが、本丸南面の石垣修復工事は完了し、その他の箇所も着々と工事が進められている。

 

月見櫓跡の石垣修復状況(南東から)

 【本丸西面・北面、雪見櫓跡】  石積み工事が終了しました。今後、盛土工事や安全柵の設置を行っていきます。

【月見櫓跡】  崩落部周辺の変形した石垣について、解体・調査を行っています。現在、9割ほど解体が進んでおります。

【帯曲輪北面】  崩落部周辺の変形した石垣の、解体工事が終了しました。現在、石積み工事の準備を進めております。平成29年8月29日現在 白河市HPより

石 垣

 様々な石積みになっているが、東北地方では珍しい総石垣造りの城です。

清水門脇水堀

水堀の幅はそれほど広くないが、石垣は高くしている。

清水門跡

二の丸から本丸へ至る門跡。高さ約11m鏡柱の直径約1mの城内最大の門であった。

桜之門跡

 桜之門は本丸御殿の南入口にあたる門で、門を通ると御殿の庭に通じる。居住区であるため藩主の出入りに利用されたと考えられる。枡形で組まれた石垣の上に櫓をわたす櫓門であり、高さは7mあったという。付近に桜が数本植えられていたため、桜之門と呼ばれたと考えられる。

前御門

 平成6年に、前御門が古図面(白河城櫓建絵図−白河市指定重要文化財)などを元に木造で復元された。

三重櫓(天守)

 平成3年に、三重櫓が古図面(白河城櫓建絵図−白河市指定重要文化財)などを元に木造で復元された。三重櫓は3層3階で、高さが約14m、屋根は瓦製の鯱(1.2m)が載せられた本瓦葺きの入母屋形式である。盛岡城とともに東北きっての石垣造りの城郭であった。

 

三重櫓

急勾配の石垣で、三重櫓の土台を支えている。 

三重櫓1階

 1階から最上階まで方形で、最上階は1階に比して、甚だ大きな逓減を有し、廻り縁や勾欄がなく、内縁となっている。 

1階弾痕の跡

 復元に使用された杉材は戊辰の役の激戦地・稲荷山の大木(樹齢約400年)で、床板や柱、腰板などにその弾痕がそのまま残っている。

2階 狭間

 1・2階東/北に鉄砲狭間が設けられている。

2階 石落とし

 1・2階東/北に石落しが設けられている。

3階 棟札

 「奉造小峰城三重櫓一宇」と書かれた棟札が掲げられている。

本丸御殿跡

 本丸の平坦地に御本城御殿と呼ばれる建物があった。藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられている。

 

富士見櫓跡 雪見櫓跡

 本丸に三重櫓をはじめ、雪見櫓、富士見櫓の三基の櫓、他の郭に五基の櫓が建てられた。

大手門跡の礎石

 大手門は小峰城の表玄関にあたる門で、平成5年に実施した発掘調査で所在が確認され、発見時の寸法のままここに移設されたそうです。

おとめ桜

 初代白河藩主・丹羽長重が小峰城の大改修をおこなった際、本丸の一角にある石垣が何度も崩れたため、藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が人柱となったといわれています。「おとめ」の霊を慰めるために桜が植えられ、「おとめ桜」と呼ばれるようになったのだそうです。 

集古苑

 小峰城跡の城山公園に白河集古苑が併設され、中世に白河地方を治めた結城家、江戸時代の大名として白河藩を治めた阿部家の歴史的資産が保存・展示されている。

会津門跡

 小峰城の西側に設けられた会津町の武家屋敷から三之丸への入口にあたる門で、会津町に通じる門のため、この名称になったようです。

本丸南西の水堀

 本丸を囲む水堀が残っている。


城下白河周辺の名所・旧跡

脇本陣・柳屋

 白河は奥州街道の最終の宿駅。戊辰戦争白河口の戦いの時には、新撰組の宿営地に、又明治14年の明治天皇東北巡幸の際は行在所となった。

芳賀家本陣跡

 脇本陣の向かい側にあり、当時、芳賀源左衛門家は代々本陣職を勤めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北御巡行の際の休憩所となっている。 当時の間口は約16間(30メートル)であった。現在は「堀川印刷所」となっている。

勧工場建物跡

 明治10年、東京上野で第1回内国博覧会が開催され、陳列所で売れ残った出品物を販売した。この陳列館が「勧工場(かんこうば)」と呼ばれ、ここは明治末に建てられた「小槌屋商会」跡で、白河における初めての百貨店の建物であった。一部改修されているが当時の原型を良く留めている。

長寿院(曹洞宗)

 もとは石川郡小高村(現在の玉川村)にあり、当時衰えていた同寺を、白河藩主松平大和守家の菩提寺孝顕寺(1692年、松平氏の転封で白河に来る)の住職が今の場所に再興したと伝えています。孝顕寺は松平氏の転封で姫路に移りましたが、長寿院には孝顕寺の僧一人を留め、白河に葬られた藩主の霊廟を守るための寺としました。

慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)

 この墓群は、慶応四年(1868)の戊辰戦争白河方面における戦死者を祀ったもので、西軍各藩である長州藩(山口県)・土佐藩(高知県)・大垣藩(岐阜県)・館林藩(群馬県)・佐土原藩(宮崎県)各藩の戦死者が眠っている。墓は全部で116基(薩摩29、長州30、土佐18、大垣13、館林7、佐土原19)あったが、大正期に薩摩藩(鹿児島県)の墓所は小峰城東側の鎮護神山に改葬された。戊辰戦争白河口の戦いでは、東軍(奥羽越諸藩)と西軍による大規模な戦争が行われ、合わせて千名近い戦死者を出している。東軍諸藩の戦死者の墓は、市内各所に所在している。本町復起会

萩原朔太郎の妻・美津子の生家

 この地は日本を代表する大正・昭和の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は萩原朔太郎にも師事し、『北方詩人』などを主宰した。萩原は当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのような縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938年)に結婚した。本町復起会

鉤 形(かぎかた)

 かつて「十軒店」と呼ばれた大鉤形が残っています。屈曲した街路は城下に侵入する敵の進行を遅らせる防御の役割を持っていました。

道も何カ所か曲っており、城下町らしい感じが残っている。

白河ハリストス正教会

 大正14年(1915)に建てられたビザンチン様式の雰囲気を持つ教会。正八角形のドームと白い壁が印象的なデザインになっている。

内部には、山下りんの油絵、石版画のイコノスタス(聖画像)が五十点余り展示されている。

関川寺(曹洞宗)

 鎌倉〜室町時代に白河を治めた結城当主のうち、結城宗広、直朝の五輪塔や、江戸時代、赤穂義士に加わった中村勘助の妻の墓がある。


 白河関跡

古関蹟の跡

 白河藩主松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関に間違いないとし、建立した碑です。

白河神社

 関の守りの神。鳥居をくぐり、55段の石段を登ると正面に式内社の白河神社が建っている。

空堀跡

 当寺掘られたと思われる土塁、空堀の跡が一部残されている。発掘調査の結果、土塁・空堀を設け、これに柵木(さくぼく)をめぐらした古代の防御施設が発見されている。

土塁跡

 当寺掘られたと思われる土塁、空堀の跡が一部残されている。発掘調査の結果、土塁・空堀を設け、これに柵木(さくぼく)をめぐらした古代の防御施設が発見されている。

古歌碑

 平兼盛、能因法師、梶原景季の白河関を詠んだ歌三首を刻んでいる。

「便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと」 平兼盛

「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」  能因法師

「秋風に草木の露をはらわせて 君がこゆれば関守もなし」  梶原景季

奥の細道 白川の関の碑

 昭和41年、この地が国の史跡に指定されたことを記念して建立された碑です。

 「奥の細道」紀行文の白河の関の一節が俳人加藤秋邨の筆で刻まれている。

従二位の杉

 鎌倉初期の歌人で、「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆(従二位宮内卿)が、手植えし奉納したと伝えられる杉の巨木です。樹齢は約800年と推定されている。

旗立の桜

 源義経が平家討伐のため平泉を発し、社殿に戦勝祈願をした際、この桜木に源氏の旗を立てたとの伝説があります。地域の名前「旗宿」はこれに由来すると云われている。

 

白河関の森公園

 園内には、小川が流れ、遊具や水車小屋、茅葺き民家を移築した「ふるさとの家」があり、公園として整備されている。

現地の案内板、パンフレットより