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菅 谷 舘

 菅谷舘跡は畠山重忠により都幾川(ときがわ)を望む台地の縁辺部に築かれた要害で、本郭、二の郭、三の郭、西の郭、南郭で構成されている。現在の舘跡は全体で約13万平方メートル(東京ドーム約3個分)に及ぶ広大な面積を持つ戦国時代の複郭式の平城(標高62m)です。

 畠山重忠が築いた当初からこれだけの規模ではなく、扇谷上杉氏と山内上杉氏の抗争が行なわれた戦国時代前期に、扇谷上杉方の拠点である河越城の抑えの城として山内上杉氏によって菅谷舘が拡充、整備された。そして天文15年(1546)の河越合戦後は北条氏の領有となり、さらに拡充されたのが現在の菅谷舘とされている。天正18年(1590)小田原の役で廃城の道を辿ることになる。

 現在、城跡は郭や土塁、空堀などの遺構が極めて良好な状態で保存されており、中世城郭の姿を今に伝えている。

  横浜の鶴ヶ峰には、重忠ゆかりの史跡や伝承が数多く残っているので、これを機会に重忠公ゆかりの地を訪ねることにした。

   畠山重忠公に一言触れると、重忠は質実剛健、智・仁・勇に富み人望が厚かったと伝えられている。このような重忠に対し、ねたみから身に覚えのない謀反の疑いをかける者も少なくなかった。鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」巻18によると、鎌倉に異変有りとの連絡を受けた畠山重忠が元久2年(1205)6月19日、「菅谷の舘」を出陣し、鎌倉幕府軍と二俣川(横浜市旭区)で戦うが、6月22日、北条氏の策略によって42才で生涯を終えたことが記述されている。

 

 

嵐山史跡の博物館(三ノ郭内)

 三の郭内に建つ歴史博物館。学芸員により史跡めぐりなどの企画も行なわれている。

出土品・資料

 菅谷舘の歴史や比企郡にある城郭(菅谷館、杉山城、小倉城、松山城など)などの考古資料や出土品が展示、解説されている。

搦手門跡(虎口) 

 博物館への進入路が、この城最大の虎口と伝えられている。木橋や土橋を渡ると三の郭へと通じる。

三ノ郭 

 東西約260m、南北約130mの長方形をしており、舘跡内で最も広い郭。武士や騎馬の集合場所として利用された考えられている。 

建物跡の復元 

 掘立柱建物跡4棟が発見され、その内1か所を木杭で復元している。 

井戸跡の復元 

 井戸跡3か所が発見され、1か所を浅い窪みとして復元したもの。 

蔀土塁 

 堀に面した虎口の内側に、小さな土塁が蔀土塁。この土塁により、西ノ郭から三の郭が見通せないようになっている。 

正てん門跡 

 西ノ郭から三ノ郭に通じる虎口は、正てん門跡と云われている。 

木橋の復元 

 三の郭と西ノ郭の間の空堀の中に木橋が復元されているが、当時の橋脚の石積みが発掘調査で確認されている。 

西 郭 

 東西約130m、南北約70mあり、郭の周囲は堀によって隔てられ、北側と西側には土塁も築かれている。 

二ノ郭

 本郭の北側と西側を囲むように造られている。 

畠山重忠公像(嵐山町の指定文化財)

 二の郭の土塁上に建っている、竹を芯にした「竹筋コンクリート製」の像。深谷市出身の鎌倉時代初期の武蔵武士。元久2年(1205)、北条氏の策略により、武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で非業の死を遂げた。 

忠魂碑

 西南戦争以来、各戦役等に散華した地元出身者342柱の御霊を合祀する旨の忠魂祠。 

二ノ郭と本郭の間にある空堀

本郭の北側の堀は幅15m以上、そこから土塁の頂部までの比高差は7〜9mもあり、館内では一番高低差がある。当時は本郭と二の郭は木橋が架けられていたと思われるが、現在では土橋で繋がれている。 

本 郭

 東西約150m、南北約60mあり、堀や土塁、郭が何重にも取り巻く城跡の中心部分である。 

出枡形土塁

 北側の土塁のほぼ中央に出枡形の土塁が築かれている。出枡形土塁は敵が侵入した際、横側から矢を射かけられるように工夫した土塁です。

南 郭

 本郭の南側、都幾川へ面して一段低いところに有り、東西約110m、南北約30mと東西に細長い平場で、舘跡の中では最も狭い郭。

博物館ガイドブック2より抜粋


 一足のばして 重忠公ゆかりの地へ(横浜の鶴ヶ峰・二俣川)

首洗い井戸・鎧の渡し

 元久2年(1205)、武蔵国二俣川の地で最期を遂げた重忠の首を洗い清めたと云われる井戸跡。右に見えるプロムナードは帷子川跡地を埋め立て整備した道で、鎌倉時代の武士は鎧を頭上に持ち上げ、川を越えたことから鎧の渡しと呼ばれた。

首 塚

 愛甲三郎季隆(矢の名手)の矢で射たれた重忠の首が、やや小高いところに葬られている。その側には塔と地蔵尊が建てられ、霊を慰めている。

畠山重忠公碑・さかさ矢竹

 畠山重忠公没後750年を記念して埼玉県川本町(現・深谷市)と鶴ヶ峰の有志によって建立された。手前の竹は、さかさ矢竹で、重忠公が矢にあたった時に「我が心正しかれば、この矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と云い、地面に突き立てた二本の矢が毎年二本ずつ増え、茂り続けたと云われている。

六ツ塚(薬王寺)

 境内には討ち死にした畠山重忠をはじめ、一族郎党の百三十四騎を埋めたと伝えられる六つの塚(写真は重忠公の塚)がある。

薬王寺・地蔵尊

 塚の周辺には、地蔵尊が建てられ重忠をはじめ一族郎党の霊を慰めている。薬王寺には重忠の霊が祀られ、霊堂になっている。

駕籠塚

 重忠公の内室「菊の前」は合戦の知らせを受け、急ぎ鶴ヶ峰に駆けつけたが、その寸前で重忠の悲報を聞き、この地で重忠の後を追って自害し、駕籠ごと埋葬されたと伝えられている。

畠山重忠公遺烈碑

 元久2年(1205)6月22日、「鎌倉に異変有り」との連絡を受けた畠山重忠は134騎で、「菅谷の舘」を出陣し、戦場となった二俣川(横浜市旭区)で、北条軍三万騎余りの軍勢と奮戦の後遂に当地で戦死した。この地は元とは「牧が原」と云われていたが、この辺りに数万騎余りの陣を構えたことから「万騎が原」になったと伝えられている。

矢畑・腰し巻き

 北条勢が放った矢がこの辺り一面無数に落下し、矢の畑のようになったと言うことから矢畑と戸呼ばれている。またこの辺りで取り囲まれたと言うことで、腰巻きという。

清来寺

 古くは厚木にあったが、寛永年間にこの地に移された。当寺の住職が畠山重忠の武勇を称えるため近在の人々に呼びかけ編纂された「夏野の露」という絵巻が伝えられている。境内には鎌倉時代に伝令として使っていた鐘があったという鐘楼塚がある。鐘楼塚は畠山重忠が所持していた観音像が埋められており観音塚とも呼ばれている。


  吉見百穴(比企郡吉見町)(国指定史跡)

 

横穴墓群

 古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に、凝灰質砂岩と呼ばれる掘削に適したこの丘陵一帯に造られた横穴墓群で、現在219基が確認されている。

地下軍需工場跡

 太平洋戦争末期には戦局の悪化に伴い丘陵斜面に地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが数多く掘られた。

ヒカリコゲ発生地(国指定天然記念物)

 ヒカリコゲの発生地で、外から入ってくるわずかな光をレンズ状の細胞が反射して黄緑色に光って見える。

百穴からの景色

 天気もよく、街が一望でき、遠くには富士山が見える。