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 「山寺」の愛称で親しまれている宝珠山立石寺。松尾芭蕉が一見の価値ありと勧められ、「おくのほそ道」で歩んだゆかりの寺、東北の「四寺回廊」の一つでもある「山寺立石寺」を訪れました。

 奇岩と杉木立が続く1015段もの石段を息をつぎながら登りきると、参道の終点は「奥の院」、参拝後は心が洗われたようで、不思議なパワーをもらった気分になった。 石段の途中には、芭蕉の句が刻まれる「せみ塚」や、ブナ材の建築物では日本最古といわれる「根本中堂」、岩上には納経堂や開山堂があり、そして「五大堂」からは麓に広がる山里の眺めは絶景です。

 芭蕉が、この寺を訪れた時に詠んだ不朽の名句と紀行文から聞こえてくる風景に出会い、心が洗われる、さわやかな旅でした。 俳聖にならい一句詠みたいところですが、無粋な人間にはかなわず、芭蕉がここで詠んだ地の文と俳句を紹介しておきます。

 ※「四寺回廊」とは:比叡山延暦寺第三代座主・慈覚大師円仁が開いた松島の瑞巌寺、平泉の毛越寺と中尊寺、山寺の立石寺の東北四大名刹を巡礼する道。

 

 

 

<おくのほそ道 立石寺の章>

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

山形領に立石寺といふ山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。
麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。
岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。
岸をめぐり岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

 

  山寺は、正しくは宝珠山立石寺といい、貞観2年(860年)清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開いた、天台宗、延暦寺の直系寺院。[71才で円仁が没した時に比叡山に葬られた遺骸が空中を飛び、600km離れたこの寺へ飛んできたという伝説がある]

根本中堂

 一山の中心となる根本中堂。延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した。円仁作と伝わる本尊・薬師如来像が安置されている。

芭蕉句碑

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声・・・元禄2年(1689年)、おくのほそ道をたどり、今の7月13日に山寺を訪れた松尾芭蕉の句で、門人たちが嘉永6年(1853年)にたてた句碑である。

清和天皇御宝塔

 山寺を勅願時とした清和天皇の供養塔で、当山では最も古い石塔である。

芭蕉の像

 境内には芭蕉像を始めさまざまな碑が点在する。1644〜1694 (正保元年?元禄7年)俳人。伊賀国出身。津藩に仕えて俳諧をたしなみ、北村季吟の指導を受けた。弟子の河合曾良を伴い、元禄 2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで、全行程600里2400kmを旅した紀行文『おくのほそ道』がある。

曾良の像

 曾良は芭蕉より5歳年下の弟子である。誠実な人柄で芭蕉の信頼は厚かった。彼は俳諧以外に神道や地理学に精通していた。「奥の細道」の旅では、コースの下調べ、資料収集、旅費の会計などを担当し、入念な記録「随行日記」を書き残した。

山 門

 鎌倉時代の建立といわれている。開山堂などへの登山口で、大仏殿のある奥之院までの石段は800段を超える。

せみ塚

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚を立てたもので、せみ塚といわれている。

奥之院

 開山・慈覚大師が、中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とする。石墨草筆の写経道場で、明治5年の再建。

三重小塔

 華蔵院その手前岩窟の中に納められた三重小塔。高さが2.4m余りという全国で最も小さい。昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定。

開山堂

 立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、夕飯と香を供えている。

納経堂

 巨大な岩山「百丈岩」に建てられた赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、昭和62年に解体修理が行われた。

五大堂

 正徳4年(1714年)に再建された舞台造りの御堂。慈覚大師が五大明王を安置し仏法の隆盛と天下泰平を祈った道場。

五大堂からの展望

 五大堂からは麓に広がる山里が一望できる山寺随一の展望台でもある。

山寺駅より望む五大堂と赤い岩肌

 この画面からは見えないが、あちらこちらに赤い岩肌が露出していて、岩場には五大堂がかじりつくように立っている。