山形城跡(国史跡)
二の丸東大手門
高麗門(正面)・櫓門・北櫓(右側)・土塀を備えた二の丸の東大手門(正門)は1991年(平成3)木造建で復元された。 |
二の丸櫓門
枡形と呼ばれる二の丸広場を中心に、櫓門や続櫓、高麗門で構成されている。 |
二の丸櫓門冠木
使用されている冠木は長さ13.8m、高さ84?、幅54?の巨大な部材で、台湾から調達している。 |
二の丸櫓の内部
枡形門の南北両側に持つ多門櫓。残された資料をたよりに、平成3年に木造で復元されている。 |
二の丸東掘
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光明寺跡(光明の庭)
兼頼の菩提樹光明寺跡。昭和52年建立。 |
水野三郎右衛門宅跡
山形城最後の城主水野家家老で、明治維新の際、身をもって難に殉じ市民を戦禍から救った元宣の宅址。今日も尊敬されているという。昭和52年建立。 |
山形城主最上義光顕彰詞碑
義光の歴史と功績を讃えた石碑。昭和52年建立。 |
石垣の刻印
石垣を積み上げる際、石工が仕事の証として印を刻んだ。現在も二の丸石垣に点在している。 |
南門(二の丸南大手門跡)
濠で囲まれた4つの城門の石垣が残っている。 |
西門(二の丸西不明門跡)
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北門(二の丸北不明門跡)
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歩兵第三十二連隊跡碑
元山形県知事安孫子藤吉氏が1964年(昭和39)に建立。明治時代後半に、「歩兵第32連隊」として山形城が軍隊の駐屯地になった。 |
山形市郷土館(旧済生館本館)
1878年(明治11)に県立病院「済生館」として建築。重要文化財に指定された擬洋風建築物。館内には当時の医療関係資料や郷土資料が展示されている。 |
本丸一文字門石垣と大手橋
本丸一文字門の石垣は平成16年に、大手橋は平成18年に復元された。 |
本丸枡形
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本丸東掘
復元進行中。 |
本丸南掘と土塁
復元進行中。 |
本丸崩落石垣跡
本丸掘の発掘調査において発見された櫓台の崩落した石垣と考えられている。後世に伝える目的で、現況の展示としている。 |
三の丸土塁跡
市街地に点在する三の丸跡。その中でも歌懸稲荷神社の西にある土塁と堀は築城当時から残っている。国指定史跡。 |
七日町御殿堰
「山形五堰」の一つで、江戸前期、山形藩主鳥居忠正が山形城と馬見ケ崎川を改修し、お堀の水と生活や農業に使う水を引くため、堰を設け、現在の形になっている。 |
市島銃砲火薬店
市島銃砲火薬店は昭和2年(1927)に竣工した鉄筋コンクリート造2階建、外壁はモルタル洗い出し仕上げの近代建築で、山形市内としては早い時期のコンクリート造の建物だとされている。 |
紅の蔵(旧長谷川呉服店)
かつて紅花商人であった長谷川家の蔵屋敷。一番古い蔵は明治34年頃建造。現在は蔵を利用し、山形のさまざまな魅力を発信している。 |
文翔館(旧県庁舎・旧県会議事堂)
大正5年(1916年)に建てられたイギリス・ルネサンス様式の旧県庁舎と県会議事堂を復元。国重要文化財・近代化産業遺産。現在は県郷土館として一般公開されている。 |
豊烈神社
水野家藩祖忠元らを祀った神社で、毎年10月6日の大祭には境内に馬場を設け、打鞠と呼ばれる儀式が行われる。 |
歌懸稲荷神社
短冊に歌を書いて神社に奉納する風習があり、歌を詠まない者は渡らせない橋が付近にあったことから、歌懸の名が残ったと伝えられている。 |
寺 町
専称寺界隈は寺町と称され、現在でも多くの真宗系寺院が集まっている。 |
専称寺
真宗大谷派の寺院。悲劇的な死を遂げた最上義光の娘・駒姫の菩提寺。本堂の四隅には左甚五郎作と伝えられる力士像がある。本堂は江戸時代中期の大型寺院本堂建築で、山形市指定有形文化財に指定されている。 |
専称寺の梵鐘と鐘楼
境内にある鐘楼は、桃山時代の建物で、梵鐘は豊臣秀吉から天下一の名工と呼ばれた京都三条出身の鋳物師西村道仁が1606年(慶長11年)に製作したもの。山形県指定有形文化財。 |
光明寺
時宗の大寺。山形城主最上家の始祖斯波兼頼が建てた寺。本堂内には兼頼の等身大の木造が安置されている。 |