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山の辺の道を歩く

 

 山の辺の道はさくらい六街道のひとつ、「日本書紀」や「古事記」にも記されている桜井から奈良へと通じる日本最古の古道の一つ。

 今年、平成24年(2012)は『古事記』編纂1300年の節目の年、神話の謎を少しでも探ろうと、かつての古代ヤマト王権の中心地「さくらい」をスタートし、三輪山の山裾を縫って、柳本駅までの約10キロの山の辺の道を、美しい自然と古代の歴史をたどりながら訪ねます。

 道沿いには大和王権の宮跡や神社仏閣、古墳、額田王歌碑(写真)、その前に広がる「神の山」三輪山など、見どころが連なっています。古墳には少し興味があるので、丹念に見て廻りましたが、ただ陵墓への立ち入りは宮内庁により厳しく制限されているので、見えるものといえば池とうっそうと繁る森だけですが、上空の高みからでも眺められば、恐らくその威容さに圧倒されるのではと歴史ロマンが膨らみます。

 額田王の万葉歌碑

うま酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の山のまに
い隠るまで道のくまいさかるまでに
つばらにも 見つつ行かむを しばしばも見さけむ山を 心なく 雲の隠さふべしや

(意訳) なつかしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまっていいものだろうか。

 反歌 三輪山を しかもかくすか雲だにも心あらなむ かくさふべしや

 

 

仏教伝来之地碑

 欽明天皇の時代に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻等を献上し、日本に仏教を最初に伝えたといわれている所。また、海柘榴市(つばいち)観音堂 を含むこの一帯を日本最古の市のあった海柘榴市跡と呼び、山の辺の道の南の起点。

金屋の石仏

 金屋の村はずれにある収蔵庫に蔵められている2体の石仏。いずれも高さ2.14m、幅83.5cm、厚さ21.2cmの2枚の泥板岩に釈迦如来像、弥勒如来像が浮彫にされている。平安時代でも後期の造立と考えられている。

磯城瑞籬宮跡伝承地

 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている第10代崇神天皇王朝の都。現在、磯城瑞籬宮は桜井市金屋にあったとものと推定されている。志貴御県坐神社には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられた。今はすっかり藪に覆われ荒れ果てている。

平等寺

 明治の廃仏毀釈で完全に廃絶した。明治13年に翆松寺として旧平等寺の山門付近に再建され、昭和52年にもとの「平等寺」に復している。本堂、不動堂のほか、江戸時代の仏足石などがある。

大神神社

 三輪明神ともいい、背後の三輪山を御神体とするわが国最古の神社。御諸山または神体山ともいわれ、古くから聖なる山、神の山として崇められており、三輪山神話として記紀にも登場することが多い。

久延彦神社

 御祭神の久延毘古命は、「かかし」のこと。「古事記」によると、少名毘古那神がはじめて出現した時、誰も知らなかった少名毘古那神の名を知っていた神であり、知識の神として崇敬されている。

大美和の杜展望台 

 展望台から西を見ると、ここから大和三山が一望できる。耳成山、畝傍山、天香具山が見える。

狭井河

 古事記によると三輪山のふもとを流れる狭井河のほとりで、神武天皇が伊須気余里比売(いすけよりひめ)に求婚し后に選んだ。「サイ」とは百合(やまゆり・ささゆり)のことで、かつてはこの付近に一面に咲いていたらしい。

狭井神社

 本社の荒魂をおまつりしている、延喜式神名帳に記される古社であります。古くより、華鎮社(はなしづめのやしろ)と称され、病気を鎮める神としての信仰が厚く、ご神水の湧き出る薬井戸がある。

玄賓庵

 玄賓僧都の庵。もとは三輪山の桧原山にあって、山岳仏教の寺として栄えたが荒廃し、寛文7年(1667)に比丘宴光が中興した。明治維新の神仏分離で現在地に移っている。

桧原神社

 大神神社の摂社のひとつで、三輪山中にある磐座を神体としているので本殿はない。天照大神を祀り、元伊勢とも呼ばれている。井寺池周辺には川端康成、東山魁夷などの万葉歌碑が立ち、空間の中にとけこむような風情を見せている。

景行天皇纏向日代宮跡伝承地

 紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)が即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた日本武尊である。

兵主神社

 穴師座兵主神社、穴師座大兵主神社、巻向座若御魂神社の三神合祀の神社である。社記によると、本社は崇神天皇の時代、倭姫命が天皇の御膳の守護神として奉祭せられたという。

相撲神社

 兵主神社参道脇にあり、相撲発祥の地と伝えられている。旧跡カタヤケシがあり、野見宿弥が祀られている。

神籬(ひもろぎ)

 この一画の小字名である「ヒモロギ」は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代であった「神籬」に由来すると考えられる。一帯は邪馬台国の有力候補地である纏向遺跡に含まれ、倭笠縫邑と伝承される桧原神社に近く、古代祭祀を考える上で注目される。(現地解説版より)

景行天皇陵(渋谷向山古墳)

 山辺道上陵ともいい、丘陵の先端を利用して3段に構築された前方後円墳。全長約300m、周囲約1キロに濠をめぐらせた堂々たる古墳である。

崇神天皇陵(行燈山古墳)

 山辺道勾岡上陵ともいい、景行陵と同じく丘陵の先端を利用した全長約242mの前方後円墳で、周囲に濠がめぐらせてある。天皇陵としてはもっとも古いものといわれる。

櫛山古墳(重要文化財)

 全長約155m、後円部径約90m、後円部の高さ約17.5m、前方部幅約70m、前方部の高さ約10mの前方後円墳で、後円部の東側に造り出しを持つ古墳です。築造された年代は 4世紀後半(古墳時代前期後半)と見られている。

長岳寺

 9世紀に淳和天皇の勅願を受けて弘法大師が開いたと寺伝にいう古刹で、釜口山上にあるところから「釜の口の大師さん」としても知られている。盛時には42の堂宇を数えたといわれるほどだが、幾度かの兵火や廃仏毀釈にあった。


黒塚古墳(重要文化財)

 柳本古墳の一つで、全長約130mの前方後円墳。平成10年(1998)に、卑弥呼の鏡ともいわれる33面もの三角縁神獣鏡が出土した。隣接する黒塚古墳展示館内には、竪穴式石室が原寸大で復元されており、鏡や鉄製品のレプリカなどが展示されている。

竪穴式石室

 石室は南北約10m、幅約1mあり、粘土棺床は約6.2mでこの上に割竹形木棺が置かれた。

三角縁神獣鏡(重要文化財)

 三角縁神獣鏡は、わが国でこれまで総計400面以上出土している鏡式である。いわば古墳時代においてもっとも流行した鏡と云える。

 古墳への副葬は多くても5面程度であり、10面以上副葬された古墳は岡山県備前車塚古墳、奈良県佐味田宝塚古墳、桜井市茶臼山古墳ぐらいである。このような出土状況から、京都府山城町に所在する椿井大塚古墳の32面以上と、黒塚古墳から出土した33面という数字はいかにも突出している。三角縁神獣鏡が副葬された古墳を見ると、やはりその地域を代表するような大型の前方後円墳が多く目につく。 (天理市立黒塚古墳展示館より)