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 「横浜・地図にない場所―消えたものから見えてくる、ハマの近代」と題した企画展が横浜開港資料館で開かれている。本展示では、2017.4/26〜7/17の日程で、現在の地図から消えた10ヶ所を取り上げ、幕末から昭和戦前期までの地図や写真約120点で詳しく解説・紹介しています。

 会場となった横浜開港資料館(旧イギリス領事館)は、当時横浜村駒形と呼ばれた、開港の歴史的な舞台となったところで、中庭には、「玉楠の木」が今も繁っている。

 安政6年(1859)に、当時、栄えていた神奈川ではなく、横浜が開港し、横浜市中心部は、幕末から現在に至る160年近くの間に、寒村から大都市へと大きな変貌を遂げた。そのため、現在ではかつての面影を残すものは少なくなっているが、開港当時の絵地図や古写真を資料にして、消えた場所や地名の、消えた理由をたどりながら、現地を訪ね、横浜の歴史に思いをめぐらせている。

 横浜村について少し触れると、宝生寺(横浜市南区)に「武州久良(岐)郡横浜村」と、横浜の地名が出てくる最も古いものとされる嘉吉2年(1442年)の文書<横浜市歴史博物館常設展展示史料より>が残されている。また、19世紀前半に於ける吉田新田の状況を描いた絵図には、砂嘴の上に横浜村と記されているのが見える。この横たわった砂浜から横浜の名が起こったと云われているが、この砂浜を洲干島とよび、砂浜に生い茂る青い松、その枝の間から見えかくれする朱塗りの洲干弁天社、入海に浮かぶ舟は絵はがきのような美しい風景だったと云われている。

 

 

1 横浜村 

 洲干島の付け根にあったのが横浜村。この場所は今も「元町」と呼ばれている。開港前の横浜村は漁村の色彩が濃い戸数百戸ほどの半漁半農の村であった。 

現在:元町・山下町・本町一帯

 横浜の開港に伴い、横浜村は、半年もしないうちに港町に変わり、近代都市横浜が誕生する。

 宝生寺本堂(横浜市指定有形文化財) 

 平安時代末期の承安元年(1171)に覚清法印によって創建された。鎌倉・室町時代には、平子氏一族の菩提寺として栄えた。さらに、江戸時代には末寺約50の寺をもって、地方有数の大寺院に発展した。

 文 書(横浜市指定有形文化財) 

 多くの古文書を所蔵しており、「横浜」の地名が出てくる最も古い嘉吉2年(1442年)の文書が残されている。

2 洲干弁天社 

 洲干弁天社は、横浜村の鎮守で、開港前は砂浜に松林が広がり、景勝地として知られていた。開港後は付近一帯が埋め立てられ、ここに灯明台局が置かれた。その後灯明台局は海上保安庁として東京へ移転。

記念碑

 「洋式試験灯台」の基礎として使用した当時のレンガをその証として説明板左横に記念碑として設置している。

現在:新横浜市庁舎建設予定地(本町6〜北仲通り6)

 弁天社跡地には、2020年竣工予定で、横浜市役所の移転が予定されている。

厳島神社 

 もともとは横浜村洲干島にあった神社。元町に移り、元町厳島神社と呼ばれるようになった。

3 平沼塩田 

 江戸末期の、平沼九兵衛が埋め立てをして造った平沼新田の住民の多くは海水を引いて製塩業に従事していた。

現在:平沼神社付近

 明治の中頃より、浜辺で造っていた塩田は次々と埋め立てられ姿を消していった。平沼家は新田の守護神として平沼神社を創建した。

4 元町百段 

 堀川に架かる前田橋を渡った先の高台にあった浅間神社に向かう道に急傾斜の「元町百段」があり、浅間山見晴台は市街を一望できる絶好のスポットでもあった。

現在:元町百段公園付近

 上の写真の中央に、丘を一直線に登る急な百段階段が見えるが、元町百段は関東大震災で崩壊し、その姿を消した。山の上には浅間神社があったが、今は元町百段公園が整備されている。

5 魚市場 

 明治4年(1871)に高島嘉衛門が市場開設の許可を得て、明治7年(1874)に、港町で四品市場(魚・鳥・獣・青物など)を開設した。 

現在:現市庁舎所在地 

 明治7年(1874)、現市庁舎所在地の港町に四品市場が開業、その後大正12年(1923)の関東大震災で焼失後、昭和6年(1931)現在地の神奈川区山内町の中央卸売市場に移転した。

6 横浜監獄 

 旧根岸村の掘割川沿いの7万3000平方メートルの敷地に、34棟の建物からなる横浜監獄署(横浜刑務所)が建てられた。掘割川沿いは桜の名所でもあった。

現在:横浜市電保存館・住宅地 

 昭和11年(1936)に笹下(現港南区港南4)に新築移転した。 

7 本牧十二天海岸 

 本牧十二天は本牧本郷村の鎮守で、幕末、外国人遊歩新道の支道が 通じたため、潮干狩りや海水浴を楽しめる風光明媚な場所として、外国人にも親しまれた。

現在:横浜市中部水再生センター 

 本牧十二天の海岸は、昭和 38年(1963)から始まった本牧ふ頭建設のため埋め立てられた。現在一帯は横浜市中部水再生センター(中区)となっている。市民に水の大切さを知って貰うため、地元の小学生を招いてアユの放流を続けている。

マンダリン・ブラフ 

 黒船のペリー提督の日本来航時、横浜周辺の水深を測量した艦隊は、十二天の黄色い崖を見て、その色から「mandarin bluff」(みかん色の崖)と呼び、当時はるばる海を渡ってきた船はこの崖を航行の目印にしていた。

8 吉田川・新吉田川

 河川を利用して、荷や人の移動が行われ、港都横浜の発展を支えてきた。

現在:地下鉄線路・大通公園 

 戦後の河川は水運の衰退により、吉田川と新吉田川は昭和43年(1968)、市営地下鉄建設のため、埋め立てを開始、地上部分は大通公園に生まれ変わった。

お三の宮日枝神社

 吉田新田の開拓者である吉田勘兵衛により新田の鎮守として1673(延宝元)年に創建された。 

吉田橋関門跡 

 開港後、外国人の取り締まりや保護のために幕府は吉田新田、戸部、神奈川と居留地を結ぶ重要な橋・吉田橋に関門を設置した。一方八王子と横浜を結ぶ「絹の道」の終着地は開港場であるので、吉田橋の建設により開港場につながった。

9 旧入船町   

 かつてこの地に、イギリス人技師パーマーが設計した横浜船渠の2号ドック(1897年完成)、1号ドック(1899年完成)、3号ドック(1910年完成)があった。ここで氷川丸も造られた。3号ドックは使用停止後埋め立てられた。

現在:みなとみらい21: 1号ドック   

 船舶の大型化に対応できず、ドックは使用中止となり造船所は移転し、1号ドック(146m)は日本丸メモリアルパーク  として、帆船日本丸を保存している。国の重要文化財に指定されている。

 「みなとみらい21」の名称は一般公募の中からイラストレーターの故柳原良平(横浜在住)が選んで決めた。「みなとみらい」の名称は平成元年(1989)に地名として誕生している。

現在:みなとみらい21: 2号ドック  

 2号ドック(106m)は石造りのドックヤードガーデンとして再生された。石材は江戸城の石垣と同じく小松石が使われている。国の重要文化財。

10 扇島海水浴場  

 昭和初期には海水浴場として賑わっていた。

現在:扇島・JFE スチール

 戦後は扇島一帯が埋め立てられ工場地帯になった。

 

<絵地図や古写真は横浜開港資料館冊子より>