米沢城址(松岬公園) (県史跡)
上杉神社
米沢上杉家の祖、謙信を祀る神社。現在の本殿は明治神宮などの設計者として知られる、本市出身の伊東忠太の設計により1923年(大正12年)竣工したもの。 |
上杉謙信公の像
米沢藩の祖。もともと越後の守護大名で、上杉家の初代、北条氏との川越夜戦の後、山内上杉の憲政の名跡を譲り受けた。戦国史上最大の戦いと云われる上杉謙信と武田信玄の激突「川中島合戦」は有名。 |
上杉鷹山公之像
上杉鷹山の名言と知られる歌が刻まれた碑がある。
「なせば成る なせねばならぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」16万両もの莫大な借金を抱え藩財政が悪化の一途をたどった時に、9代藩主の改革派大名上杉鷹山が登場し、徹底的な倹約と産業開発により藩政を刷新した。 |
上杉景勝公と直江兼続公主従像
初代米沢藩主上杉景勝と側近の直江兼続をモデルにした大河ドラマ「天地人像」
直江兼続は米沢藩初代藩主景勝の執政。家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑に理をもって堂々と反論して家康を激怒させ、会津戦争につながった「直江状」が有名。現在の米沢の礎を築いた。 |
稽照殿
上杉神社の宝物殿として刀や甲冑などを収蔵展示。直江兼続が所用していたとされる「愛」の前立の甲冑が展示されている。 |
伊達政宗生誕の地石碑
伊達政宗公は米沢城で生まれているが、若くしてこの地を去っている。伊達家がこの地を治めた期間は短く、以降、上杉氏が13代に亘って居城とした。 |
上杉謙信祠堂跡
江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。
謙信は天正六年(一五七八)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている 。 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津一二〇万石、米沢三〇万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。 明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された 。 米沢市 現地案内板 |
春日神社
春日四柱大神。米沢藩主家上杉氏の氏神で林泉寺の鎮守であった。 |
舞鶴橋(国登録有形文化財)
1886(明治19)年築。米沢城本丸跡の堀に架かる石造橋で、上杉神社への参道となっている。 |
菱門橋
米沢城本丸跡の南側堀に架かる太鼓橋で、鮮やかな朱塗りの橋。橋名は、江戸時代は本丸内の藩主が住んだ御殿からの南出入り口にあたり、その通行は厳重に取り締まったことから「秘し門」称されたことに由来する。 |
菱門橋からの本丸南西の水堀と土塁
石垣はないが、本丸南西に、水堀と土塁が残っている。 |
本丸北側土塁
本丸北側に土塁の遺構が残っている。 |
松岬神社
上杉神社に隣接し、米沢藩初代藩主景勝、9代鷹山、景勝の執政直江兼続などの六柱を祭神としている。 |
上杉記念館
旧上杉伯爵邸で、鶴鳴館.と称された。庭園を見ながら、米沢伝統の郷土料理が味わえる。 |
伝国の杜(上杉博物館)
数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されている。 |
春日山林泉寺(国登録有形文化財)
上杉家・直江兼続の菩提寺。上杉家藩主の奥方や子女をはじめ直江山城守兼続など、多くの家臣たちの墓所となっている。米沢三名園の一つ。 |
林泉寺山門
現在の山門は、門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所在地)の門を明治35年に移転したもの。藩主上杉鷹山公がくぐられた竹俣当綱家老の門です。
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旧米沢高等工業学校本館
現山形大学工学部記念講堂。1910年(明治43)7月竣工。英国人の設計と伝えられ、ルネッサンス様式の美しい木造二階建てで、国指定文化財になっている。 |
吉 亭(国登録有形文化財)
米沢牛山懐料理の専門店。大正年間建築の織元の屋敷で、江戸末期からの庭園・栗の老木等は見事です。 |
東光の酒蔵
1597年(慶長2年)創業の米沢藩御用酒屋。古い大きな酒蔵を復元し、昔ながらの造り酒屋の道具などを展示している酒造資料館。 |