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啄木ゆかりの地・歌碑めぐり

 

  今年(2016年)は、1886年(明治19)、南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区)に生まれた石川啄木、本名石川一の生誕130年という節目の年にあたります。妻節子も同年10月に生まれており、同じく生誕130年です。 

  盛岡城公園を中心に岩手山と中津川・北上川の流れが一体となる盛岡の町並みは、今も盛岡藩二十万石の城下町として栄えた面影を見せている。啄木の盛岡中学時代は、時折、学校を抜け出して、近くの「不来方のお城(盛岡城址公園)」(「盛岡城下めぐり」で紹介しています。)に逃れては、文学を志していたと云われている。 二の丸跡に建つ金田一京助博士の揮毫になる啄木の歌碑(写真下)「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」(『一握の砂』より)の歌が心に響き、これを機会に、ひと足伸ばして「啄木のふるさと」へ。盛岡駅からIGRいわて銀河鉄道に乗車、北東に姫神山(1123.8m)、北西に岩手山(2038m)の二つの美しい山を眺めながら20分ほど北上し、渋民駅で下車。啄木の故郷・渋民村へと入り、まずは北東へ歩いて30分ほどのところにあるモダンな白い建物の石川啄木記念館(同上左)を訪ねました。

  渋民村(現玉山区渋民)は、啄木にとって、生涯忘れることのできない心の故郷で、石川啄木記念館では第5回目となる企画展「啄木の妻節子」や「啄木と北海道〜新運命を開拓せん〜」を記念事業として、啄木が残した作品をはじめ、各種の文献・資料が展示、紹介されていた。この啄木記念館裏手の幼少時代を過ごした宝徳寺から西へ400mほど、目の前の大自然の豊かさを感じながら、ハイキング気分で渋民公園、夜更森緑地(同上右・山頂からの姫神山眺望)、愛宕の森へと、文学散歩を楽しんだ。

  啄木の故郷を訪ね、啄木の魅力に触れたことがきっかけで、啄木の歌碑めぐりにチャレンジすることにした。啄木ゆかりの地や歌碑が数多く残されている盛岡市内を始め、132日間という短い函館生活であったが、「死ぬときは函館で」と言わせたほど啄木が魅せられた函館、そして文学に新しい人生を賭け、ついに終焉の地となった東京にも足を運んだ。 各所で生まれた多くの歌に接して、啄木に思いを馳せながら散策している。

  ここで啄木の生涯を振り返ると、啄木、本名石川一は、山深い南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)の常光寺に、明治19年2月20日、住職の父石川一禎、母カツの長男として生まれた。その翌年父の転任よって、渋民の宝徳寺へと移り、幼少時代をこの寺で過ごし、渋民尋常小学校で学ぶ。幼い頃より優秀だった啄木は、9歳の時、親元を離れ盛岡に移り、盛岡高等小学校に入学。三年間優れた成績を収め、盛岡尋常中学校(盛岡中学校・現盛岡第一高等学校)へ進学。盛岡中学時代から文学を志し、生涯の友人となる2年先輩の金田一京助(後の言語学者・文化勲章受章者)や妻となる堀合節子と出会うのもこの時期である。

  盛岡中学校では、学年が進むにつれて学業から離れ、文学で身を立てようと、盛岡中学を中退、明治35年初めて上京し、「明星」を編集した与謝野鉄幹・晶子の知遇を得るとともに、ここに集まる文学仲間から大きな影響を受ける。しかし心身ともに疲れ病身となり、故郷に帰郷し、明治38年6月、やむなく父が転居していた盛岡に帰り、女学校に通う堀合節子と結婚し、渋民に帰るまで9カ月間ほど暮らした。この頃、処女詩集「あこがれ」を刊行し、啄木鳥の樹をつつく音を聞いていたことから、啄木というペンネームにしている。

  再び渋民に戻った啄木は明治39年、母校の渋民尋常小学校の代用教員として1年間教鞭をとるが、1年余りで教師生活を終え、新しい生活の場を求め、明治40年5月、北海道へと渡る。北海道では小学校や新聞社に勤めるが、わずか1年足らずの時を函館から札幌、小樽、釧路へと転々としながら過ごすことになり、最後の文学活動を試そうと、明治41年に22歳の啄木は妻子を函館に残し、先輩の金田一京助を頼って再び上京し、明治45年まで4年間住み創作活動に専念する。

  こうして執筆活動を続けながら「一握の砂」(明治43年12月刊行)、「悲しき玩具」(没後間もなく、明治45年6月刊行)など優れた作品を発表する。しかし貧困と病気のため故郷に戻ることなく明治45年4月に26歳の若さで父一禎、妻節子、若山牧水にみとられ、短い人生を閉じることになった。

 

 渋民村(現玉山区渋民)

 

渋民駅前小公園

 「 なつかしき 故郷にかへる思ひあり、 久し振りにて汽車に乗りしに。」 「悲しき玩具」より

 故郷と汽車を詠んでいる。啄木の頃は渋民駅はなく、一つ先の好摩駅を利用していた。

渋民駅前小公園  

  「 雲は天才である」 

 教師の傍ら、小説「雲は天才である」を執筆。その小説の名を刻んでいる。

愛宕の森(渋民緑地) 

「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど」 (愛宕神社境内内) 「一握の砂」より

 愛宕神社の境内からは渋民の集落が一望できる。啄木は「生命の森」と呼んで愛し、よく散策して詩想を練ったという。

宝徳寺 

啄木が幼少時代を過ごしたお寺で、平成12年の立て替えの際に、啄木が使用した部屋が復元された。

宝徳寺境内 

「ふるさとの寺の畔の ひばの木の いただきに来て啼きし閑古鳥!」

「悲しき玩具」より

境内には歌に詠まれたヒバの木が茂っている。

旧渋民尋常小学校復元校舎 

啄木は小学校時代にこの校舎で学び、後に代用教員として教鞭を執った。この小学校をモデルに「雲は天才である」の小説を書いた。中庭中央には、彫刻家中村晋也氏の「啄木と子供たちの像」がある。

旧渋民尋常小学校教室 

尋常科二年生を受け持ち、高等科の子供たちに、課外授業で英語を教えたりした。

旧渋民尋常小学校

「時として、あらん限りの声を出し、唱歌をうたふ子をほめてみる。」

「悲しき玩具」より

旧斉藤家住宅移転復元 

啄木は代用教員時代に、母と妻とともに一年間暮らした。この建物は移転、復元されたものである。

当時の斉藤家の前に故郷を詠んだ歌碑が建っている。

「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」 「一握の砂」より

旧斉藤家の居間 

斉藤家の二階の一室から、「雲は天才である」などの小説が生まれた。

節子の歌碑 

「この舟は海に似る白帆に紅けの帆章したり」

旧斉藤家の前にある、妻、節子が詠んだ歌碑。節子の詠んだ短歌は啄木の「小天地」や新聞などに掲載されている。

渋民公園 

「やはらかに柳あをめる 北上の岸邊目に見ゆ泣けとごとくに」 「一握の砂」より

 岩手山を西に、姫神山を東に望む北上川畔の渋民公園の中に、1922年( 大正11)年4月に建てられた石川啄木の全国第1号歌碑。

川崎緑地

 「今日ひょいと山が恋しくて山に来ぬ。去年腰掛けし石をさがすかな。」 「悲しき玩具」より

 北上川の対岸に位置し、姫神山を背景にした渋民の街並みを一望できる。

夜更森緑地 

「公園の木の間に 小鳥あそべるを ながめてしばし憩ひけるかな」 「一握の砂」より

 

夜更森緑地 

「霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ」 「一握の砂」より

 好摩駅からほど近い、こんもりとした森が夜更森。山頂からの姫神山の眺めが良い。妹三浦光子の書による歌碑。

好摩駅 

「ふるさとの停車場路の 川ばたの 胡桃の下に小石拾へり」 「一握の砂」より

 当時は、渋民駅はなく、好摩駅は啄木が東京や函館に旅立つ際に利用した駅です。


 盛岡城跡・北上川周辺

 

盛岡城二の丸跡

 「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」「一握の砂」より

 二の丸跡に盛岡中学で2年先輩の金田一京助揮毫の歌碑が建つ。当時の盛岡中学は盛岡城内丸にあり、啄木はよく授業を抜け出して城内に遊んだ。

盛岡駅前広場 

「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 「一握の砂」より

 啄木が愛したふるさとの山々を詠んだ歌。盛岡駅は啄木が何度となく利用した駅。

啄木新婚の家

 明治38年6月4日から約3週間、啄木と節子が新婚時代に一家で過ごした家。

婚約時代の啄木・節子

  明治37年2月結婚、38年5月12日婚姻届を提出して石川啄木、節子は夫婦となった。この写真は37年秋に写したもの。

四畳半の部屋

 啄木の書斎を兼ねた西向きの4畳半が啄木夫婦の部屋で、エッセイ「閑天地」はここで執筆された。

丸藤菓子店前(現・ローソン)の少年啄木像

  「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれどー」 「悲しき玩具」より

 中学を退学して上京する頃の啄木の姿を表現した岩手大の本田貴侶作の「北風に立つ少年啄木像」で、台座には歌が刻まれている。中学生(高等小学校)の頃、盛岡城の菜園跡地であったこの辺りもよく散策した。

北上川沿い・啄木であい道 

[かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど]「一握の砂」より

開運橋から旭橋間の遊歩道に歌碑が建てられている。


 中津川周辺

 

下ノ橋中学校 

「その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ」 「一握の砂」より

 金田一京助の書による歌碑が校庭に建てられている。下橋中学校の前身、盛岡高等小学校で啄木は楽しい三年間を過ごしている。この地は新渡戸稲造生誕の地で、時の小学校時代の校長でもあった。

下ノ橋中学校

 「城あとの古石垣にもたれて 聞くとしもなき 瀬の遠音かな」 若山牧水

 「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」 石川啄木

 啄木の最期を看取った若山牧水との友情歌碑もある。

御厩橋

「中津川や 月に河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と」 啄木

「中津川 流れ落合ふ北上の 早瀬を渡る夕霞かな」 一禎

中津川と北上川が合流するあたりに啄木父子の歌碑がある。

盛岡市役所裏付近 

「中津川や 月に河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と」 「明星」より

中の橋と与の字橋の間に建っている。

富士見橋 

 「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」 「一握の砂」より

 中津川の上の橋上流に架る富士見橋左岸の橋の親柱には、啄木の望郷歌が銅板ではめ込まれている。この地で、南部片富士と呼ばれる岩手山が望まれることから付けられた。

文芸雑誌「小天地」発行所跡

 中津川に架かる富士見橋近くの啄木が文芸雑誌「小天地」を発行した場所。現在はアパートに変わっている。

「盛岡中学校濫觴の地」碑

 「盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我をよらしめ」「一握の砂」より

 啄木が学んだ旧制盛岡中学校跡地の岩手銀行本店あたりに建っている。

盛岡中学校跡

 「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」「一握の砂」より

 岩手銀行に隣接する岩手医大循環器医療センター敷地内にある「盛岡中学校跡」の碑。

もりおか啄木・賢治青春館(旧第九十銀行)

 明治43年に竣工された旧九十銀行が、現在「もりおか啄木・賢治青春館」として保存活用されている。レンガ造りの美しいロマネスク風の近代西洋建築物で国の重要文化財。


 

 岩山(啄木望郷の丘・啄木詩の道)

 

啄木望郷の銅像

 岩山山頂の「啄木望郷の丘」に、啄木望郷の像が建立されている。像は故郷・玉山と姫神山の方角を向いている。

 像の側には妻・節子との夫婦歌碑が建っている。

啄木夫婦歌碑 

 石川啄木「汽車の窓 はるかに北に故郷の 山見えくれば襟を正すも」

 石川節子「光淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸抱きぬ」

啄木詩の道

 啄木望郷の丘に啄木生誕111年を記念して、平成9年(1997)に「啄木詩の道」がつくられた。その「啄木詩の道」には歌碑10碑が設置されている。


 

 岩手大学・盛岡一高

 

盛岡第一高校正面付近 

 「盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我をよらしめ」「一握の砂」より

2006年に啄木生誕120年を記念して、母校有志により建てられた。

若き石川啄木像

 岩手県出身の戦後日本を代表する彫刻家、舟越保武の作品。白堊記念館展示室(盛岡一高)には白堊の先輩に関係する資料などが数多く展示されている。

啄木の妻堀合節子誕生の地と井戸

 岩手大学植物園内で石川啄木の妻節子の生誕地と特定された場所に井戸が復元されている。

啄木・節子の歌碑

 「ある日、ふと、やまひを忘れ、牛の啼く真似をしてみぬー妻子の留守に」「悲しき玩具より」 啄木

 「ひぐるまは焔吐くくなる 我がうたにふと咲き出でし黄金花かな」 節子

 その井戸の石の蓋に啄木・節子の歌が刻まれている。


 函 館

 

啄木小公園

 「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」「一握の砂」より

大森浜を望む啄木小公園に歌碑と座像がある。

啄木小公園

西条八十が啄木に捧げた詩碑 

「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒

立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる」 捧啄木 西條八十

詩人西条八十が昭和33年、来函の際に作った啄木に捧げる歌碑が建っている。

函館公園 

 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 「一握の砂」より  

 青柳町には故郷から呼び寄せ、家族とともに暮らした啄木の居宅跡がある。啄木の滞在期間は4カ月余りだったが、当地に愛着をもち、この歌を詠んでいる。公園内に歌碑が建てられている。

万平塚 

 「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」 (案内板)「一握の砂」より

 地蔵寺境内の万平塚に、啄木は明治から大正にかけての函館の名物男、万平のことを歌にしている。


 

 東京・上野 浅草 銀座

 

上野駅構内 

 「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」   「一握の砂」より

岩手から上京した啄木が、ふるさとを懐かしみ詠んだ歌です。1985年(昭和60)、東北新幹線上野駅 乗り入れを記念して建てられた。

上野駅前商店街入口 

 「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」 「一握の砂」より。

 駅構内と同じ短歌が刻まれた歌碑が建てられている。

「等光寺」石川啄木葬儀場  

 親友の土岐哀果(善麿、歌人・国語学者)の生家である等光寺(現、西浅草 1−6−1)で母カツ、啄木自身の葬儀が行われた。

「等光寺」境内

 「浅草の夜のにぎわひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」 「一握の砂」より

啄木生誕70年にあたる昭和30年(1955)に境内に建てれた。

朝日新聞社跡 

 「京橋の 瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」 「一握の砂」より

 朝日新聞の校正係として勤務し、上司や同僚の厚意と恩情にまもられて、歌集『一握の砂』、『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』など多くの名作を残した。銀座の人びとが啄木没後60年を記念して、朝日新聞社跡に歌碑が建立されている。 歌に詠まれている京橋の滝山町は現在、中央区銀座6丁目という表記になっている。


 

 本郷 小石川 湯島

 

赤心館跡 石川啄木旧居跡

 文学で身を立てる決心をし、函館の友人宮崎郁雨に母と妻子を託して単身上京し、親友の金田一京助を訪ね、その好意によって「赤心館」にわずか4ヶ月同宿していた。啄木はここで小説「菊地君」「母」「ビロード」など小説5篇を完成させるが、小説は売れず苦悩の日々が続きます。

蓋平館別荘跡

「父のごと 秋はいかめし 母のごと 秋はなつかし 家持たぬ児に」 /   「東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹とたわむる」と、ここ蓋平館で詠ったといわれている。どちらも「一握の砂」より

赤心館での下宿代が滞り、金田一京助の援助で、蓋平館別荘に移り9カ月間宿泊します。ここでは小説「鳥影」を書き、東京毎日新聞社に連載された。玄関前に啄木の歌碑があったが、マンション新築工事に伴い、撤去されていた。

喜之床(きのとこ)旧跡 啄木旧居

「かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川」 「一握の砂」より

 「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと 手を見る」 」「一握の砂」より

 赤心館、蓋平館別荘から新築間もない理髪店「喜之床」に転居し、ここで2年間家族揃っての生活が始まった。朝日新聞社の校正係として勤務し、優れた作品が多く生まれている。「喜之床」の屋号は「理容アライ」と変わり、啄木が住んでいた頃の家屋は、犬山市の「明治村」に移築されている。

啄木終焉地歌碑

「呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音」

「眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな。」

 平成27年3月22日、石川啄木終焉の地の隣接地に「石川啄木終焉の地歌碑」が設置されている。歌碑には啄木最後の歌とされる、第二詩集『悲しき玩具』冒頭の二首の直筆原稿を陶板にしてはめ込んである。

啄木終焉の地

 喜之床からこの地、文京区小石川(旧久堅町)の借家に移り、居住するが、肺結核のため、父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、26歳と2ヶ月の短い生涯を閉じた。

顕彰室

  平成27年3月22日、石川啄木終焉の地の隣接地に「石川啄木顕彰室」が設置されている。文京区との関連を中心に、直筆の手紙(複製)などを展示している。

湯島切通坂

「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな 」

 この歌は、石川啄木(1886〜1912)の明治43年(1910年)の作で、『悲しき玩具』に収められている。

 当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2-38-9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、夜勤の帰りに通った坂である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。


 

 寄り道(東京)

 

金田一京助・春彦旧居跡

 本郷 菊坂の谷から鐙坂(あぶみざか)を登る徒中に、金田一京助・春彦旧居跡がある。金田一京助は言語学者でアイヌ語研究の第一人者。盛岡市第一号の名誉市民。長男の春彦は国語学者。

宮沢賢治旧居跡

 詩人・童話作家。明治29年(1896)花巻市に生まれる。大正10年(1921)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。誠実な仏教徒で、童話集「注文の多い料理店」に収めた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。現在は、マンションになっている。

坪内逍遙旧居・常磐会跡

 炭団坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。 その後、常磐会という寄宿舎になり、正岡子規が住んだ。

樋口一葉ゆかりの旧伊勢屋質店

  菊坂裏通りから菊坂通りに出て西に下ると、樋口一葉が通ったといわれる旧伊勢屋質店がある。伊勢屋質店は1860年(万延元年)に創業し、1982年(昭和57年)まで営業していた。菊坂通りに面して白塗りの蔵と木造の店舗が建っている。

東大赤門

  夏目漱石の小説「三四郎」の舞台となった場所の一つ。文政10年(1827年)に加賀藩主前田家に嫁いだ11代将軍徳川家齊の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門。重要文化財に指定されている。

東大イチョウ並木

 正門から安田講堂の間までのイチョウ並木 。11月下旬頃には一斉に黄色く色づき、最盛期を迎える。東大の教壇にも立ったこともある夏目漱石の小説「三四郎」から通称「三四郎池」と呼ばれる「心字池」も多くの観光客が訪れている。

真砂遺跡

  昭和59年(1984)、文京区女性センターの建っているこの地の発掘調査により、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料が見つかっている。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。江戸時代に唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。

鐙 坂

  本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改 選江戸志』)などといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。

炭団坂

  本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。 

新 坂

  区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。

切通坂

  湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

銀座の柳二世

 みゆき通りの泰明小学校前に、銀座の柳二世が植えられている。銀座にはかつて柳が街路樹として植えられていたが、銀座通りの大改修により柳は撤去され姿を消した。その後有志により柳二世を復活させ育てられている。

 同校の入口には「島崎藤村 北村透谷 幼き日ここに学ぶ」の石碑が建てられている。

空 也

 創業は明治17年の銀座の老舗和菓子店。開店まもなく「本日のもなか全て売切れました。、、、、、、」 の張り紙が貼られる人気の「もなか」。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」にも登場するという老舗店。

「あぁ上野駅」歌碑

 井沢八郎さんの代表曲「あぁ上野駅」の歌碑。作詞・関口義明、作曲・荒井英一。昭和30年代集団就職で上京した若者への応援歌。

 「あぁ上野駅」の歌詞は、「故郷」を多く詠んだ啄木歌と見まがうばかりの詩なので、歌詞全文を載せている。

一、どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ 上野は おいらの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が  あの日ここから 始まった

二、就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す 上野は おいらの 心の駅だ 配達帰りの 自転車を  止めて聞いてる 国なまり 

三、ホームの時計を 見つめていた 母の笑顔に なってきた 上野は おいらの 心の駅だ お店の仕事は 辛いけど  胸にゃでっかい 夢がある