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重要伝統的建造物群保存地区
弘前仲町武家屋敷

 

 弘前城は、藩祖津軽為信によって築城が開始され、二代藩主信牧により慶長16年(1611)に櫓八、城門十二を備える平山城を完成させた。

 寛永4年(1627)に落雷によって焼失し、以後天守は再建されず、文化7年(1810)に幕府の許可を得て、本丸辰巳櫓を改築し、東日本唯一の三重三階の天守を再建、この天守(現存十二天守)の他、5つの城門、3つの櫓などが築城時そのまま残された全国でも数少ない城郭です。

 重伝建地区に指定されている仲町地区(写真上右)は、弘前城(弘前公園)の北門・亀甲門の守りのため、配置された武家町である。この通りは、サワラの生け垣と黒板塀、黒塗りの薬医門の武家屋敷が連なり、今も昔ながらの町並みがよく残っている。通りに配しているサワラの生垣はその陰から攻め込んでくる敵を長さ4mの槍で刺して攻撃し、城を守ろうとした。

 また亀甲門前にある石場家住宅は江戸中期の貴重な町家建築で、商家はこの地方でも数少なく、貴重な遺構である。表通りに向けて、雪国特有の「こみせ」が設けられ、歴史を感じさせている。

 次の目的地、弘前城へ訪れた時は、石垣の一部に、外側に膨らむ「はらみ」が見られたことで、その天守を支える石垣の修理に備え、天守を石垣から持ち上げて、石垣を積み直す100年ぶりの大修復事業が段階的に進行中であった。

 その後、2017年9月に再度訪問、天守(同上左、移動前の天守)は曳家工事が行われ、本丸の内側、北西に約70mに移動されていた。石垣の解体は既に始まり、曳家した天守が元の位置に戻るのは2021年頃の予定になっている。天守は移動先で内部も公開されているが、今しか見れない石垣の崩落した姿や修復状況などを目の当たりにすることができたので、追加掲載している。

 足をのばし、南門・追手門の西南側には、津軽藩歴代藩主の菩提寺である長勝寺をはじめ、禅林街(同下)と呼ばれる曹洞宗33の寺院が建ち並んでいる。これは城の南側を守るために壁のように寺院が作られたもので、現在でも街のあちこちに江戸時代の名残を留めている。

 

 仲町地区(重伝建地区)

旧岩田家(県重宝指定)

 この建物は、今から約200年ほど前の、寛政時代から文化年間に建てられた茅葺きの旧武家住宅です。建物だけでなく、間口が狭く奥に細長い敷地やその利用形態まで江戸時代からほとんど変わっていないものと云われている。

旧伊東家(県重宝指定)

 この建物は、当初元長町に建てられ、後に藩政時代に代々藩医を務めた住宅であったものを昭和55年に移築復元したものです。今から約200年ほど前に建てれた中級武士の住宅の構造をよく伝える貴重な建造物です。

旧梅田家

 江戸時代末期に建てられた茅葺きの旧武家住宅ですが、当市在府町から昭和60年に移築復元されている。天井がないため、小屋組という屋根を支える構造になっている。

旧笹森家

 小規模な住居ではあるが、玄関から広間を通り、床の間・縁側を設けた座敷に至る様式が、接客を重んじる武士階級の住宅です。弘前市仲町伝統的建造物群保存地区内に現存する最古の武家住宅です。


石場家住宅(国指定重要文化財)

 江戸時代中期の建築と推定されているが、藩政時代から工芸品を中心に取り扱ってきた商家で、建物の規模は大きく豪壮で、梁や指物或いは細部の仕上げに特徴を有する当地の数少ない商家の代表的遺構です。現在も地酒などを販売する酒屋として営業している。各屋敷の案内板、説明文より

こみせ

 表通りに向けて設けられた幅が1mほどの、雪国特有のアーケード。冬は降雪や積雪から夏は日差しから通行人を守る。

台所とその奥が上座敷

 板の間の台所に囲炉裏が切られている。その奥が上座敷。

土 間

 広い通り土間に、今は使われていないが、井戸が当時のまま残っている。


 

 弘前城(国指定史跡/国指定重要文化財)

 

天守移動前

 江戸時代に再建された天守としては、東北地方に現存する唯一のもの。

鯱 鉾

 鯱鉾は、トラに似た頭部、魚のような胴体を持つ想像上の動物。火災よけ、魔よけの霊験が信じられている。木製銅版張り。

屋根の瓦

 屋根瓦には寒冷地対策として、粘土製の瓦を用いずに銅瓦(木型の上に銅板を貼り付けているもの)を用いている。

本丸未申櫓跡(旧天守)

 本丸南西隅に、弘前城築城当初、5層の天守がありました。しかしこの天守は1627年(寛永4年)、火事(落雷が原因とも言われています)により焼失してしまいます。以後、1810年(文化7年)になるまで天守の新造が認められなかったため、ここには櫓が建てられた。

本丸御殿御玄関礎石

 この礎石に玄関の柱が建てられていた。本丸には能舞台や御武芸所など敷地の7割ほどに各種の建造物があった。

天守石垣修理中(2017.9撮影)

 天守をジャッキで持ち上げて、約70m先の本丸奥に移動させる曳屋(ひきや)作業を平成27年(2015)に行った後、平成28年(2016)から100年ぶりとなる本格的な本丸石垣の解体修理が始まっていた。天守が元の位置に戻るのは2021年頃の予定。

本丸石垣解体工事中

 二の丸に設置された「展望デッキ」からの東面の石垣修理工事の模様

天守台石垣の隅石(いかすみ石)

 イカの形をした隅石で、全国でも弘前城跡しか見られないまれな石型である。造られた時代や役割については調査中。

刻字隅石

 百年前の大規模な石垣修理と天守の引き戻しの完了間際に行われた地鎮祭の直前に、記念として石垣に刻字し積み直をしたものである。

本丸井戸跡 石製井戸枠

 この井戸枠は、天守より約65m北側の石壕沿いにあったが、本丸石垣修理に伴い、この場所に移設した。籠城の際の生命線となる井戸の跡です。弘前城の絵図面によれば、本丸内にはこの他にも数か所の井戸があったことが分かっているが、現在その跡が確認できるのはここだけです。地元で産する安山岩をくり抜いた堅牢な造りで、周囲は番所や塀が廻されていた。

天守最上階

油圧ジャッキ・台車

 天守内部に、曳家工事に使用された油圧ジャッキや台車が紹介されている。

天守最上階

 本丸側(北/西)は、狭間はなく、明り取りの為の格子窓を並べるだけで、二の丸側(南/東)には2面だけで55の狭間があるという珍しい形状になっている。これは外に対する見栄を重視して作ったと云われている。


二の丸

 未申櫓、辰巳櫓、丑寅櫓の三基の櫓が現存し、すべて3層3階からなっている。

西の郭

 西の郭には、西側の土塁に沿って御馬場や御矢場が作られたほか、各地の珍しい植物を植えた「御花畑」などがあったと伝わっている。

蓮 池

 本丸の西の防御のために備えられた濠で、崖上の本丸との標高差は17メートルにおよびます。

 水 濠

 西濠の両岸には約300本の桜がアーチ状に植えられている。


 城 門

 北門、南内門、東内門、追手門、東門の五つの城門が現存し、江戸時代に造られた城郭建築が多数残されている。いずれも重要文化財に指定されている。

 

北の丸亀甲門

 城の北にある北門は、5門の中では最大かつ最古のもので、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである。大光寺城の門を移築したといわれている。

二の丸南内門

 慶長15年(1610)に建てられたもので、二の丸南側の枡形に位置している。

二の丸東内門

慶長15年(1610)に建てられたもので、二の丸東内側の枡形に位置している。

 

三の丸追手門

 慶長16年(1611)に建てられたもので、二層の櫓門が枡形に位置している。

三の丸東門

 慶長15年(1610)年に建てられたもので、本丸の東側を固める門。

武者屯御門跡

 長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)の黒門と同様の高麗門(こうらいもん)形式で、門扉は2枚扉であった。 番所があり更に門の両脇に袖塀そでべいがあったことが古い写真からわかる。 二の丸と下乗橋で区画され、本丸に連絡路で続くこの一郭が「武者屯むしゃだまり」で、合戦の際には大将が軍装を整えて号令を発する場所である。(説明板より)


 隅 櫓 

 丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓の三つの隅櫓が現存し、建築年代を示す明確な資料はなく、江戸初期のものとみられている。いずれも重要文化財に指定されている。3棟の隅櫓は、すべて3層3階からなっており、1・2層を4間四方の同面積とし、そのうえに1層を重ねて3階としている。屋根はとち葺型銅板葺で、土蔵造に白漆喰塗り、壁は太鼓壁となっている。

二の丸辰巳櫓

 辰巳(南東)を守る隅櫓。

二の丸未申櫓

未申(南西)を守る櫓。

二の丸丑寅櫓

 丑寅(北東)を守る櫓。


 橋

 園内の水濠には、杉の大橋、下乗橋、鷹丘橋、羽弥橋、春陽橋、賀田橋、一陽橋、亀甲橋の八つの橋が架けられている。濠の水や周辺の木々と調和し、四季折々の表情を見せます。

杉の大橋

 二の丸と三の丸に架かる橋。杉材を用いた橋と云うことから付けられたといわれる。文政4年(1821)に濠の両側が石垣となるとともに、ヒノキ材によって架け替えられた。

下乗橋

 藩主から許された者以外は馬やかごから降りて歩いて渡らなければならない橋。


鶴の松

 鷹揚園内随一の名木である。老鶴形に仕立てられ美しく優雅な形をしているところから「鶴の松」とよばれている。向いの石垣の中心に「亀の石」とよんでいる大石があり、並び称されている。

亀 石

 亀石という巨石が石垣内に組み込まれている。

古木・銘木

 明治15年植栽の「日本最古のソメイヨシノ」や、棟方志功画伯が「御滝桜」と命名したシダレザクラがある。

植物園

 園内には、23ゾーン、1,500種、124,000本の樹木、草木が植えられている。


 寺院・庭園

最勝院五重塔(国指定重要文化財)

 津軽統一の際、戦死したすべての人々を敵味方の区別なく供養するため、4代藩主信政の時代に建造。塔の総高は31.2mで、東北一の美塔と讃えられており、五重塔の少ない東北地方としては極めて大切な遺構です。

津軽一代様

 津軽地方では、自分の生まれ年の干支を守り本尊として信仰する風習「津軽一代様」があり、最勝院のご本尊・文殊菩薩は「卯」の一代様となっている。

時鐘楼

 寛文5年(1665)以来、ここに城下に時を告げる鐘が設けられていたが、戦争の供出により姿を消した。最勝院境内に復元され、「平和の鐘」の名で親しまれている。


長勝寺山門(国指定重要文化財) 

 津軽家の菩提寺で、亨禄元年(1528)に大浦盛信が父・光信の供養のために種里(現在の鯵ケ沢町)に創建した菩提寺。慶長15年(1610)の弘前城築城の際に現在地に移されたと伝えられている。江戸時代初期を代表する建造物です。津軽家霊廟、本堂や三門など多くの国の重要文化財がある。

 津軽家霊廟(国指定重要文化財)

 津軽藩二代藩主の信牧をはじめとした歴代藩主が眠る杉木立の中に並ぶ五棟の霊廟。


 栄螺堂(さざえどう)

 天保10年(1839)、弘前の豪商中田嘉兵衛が寄進。八角形の内部は、右回りの回廊と直進階段を併用して昇降。東北では二つだけという貴重な建物です。

 黒 門

 長勝寺を正面として寺院が両側に並ぶ手前にあり、禅林街の総門(表門)と位置付けられている。城郭の門に多く用いられる高麗門形式で建てられている。

 藤田記念庭園(国指定重要文化財/洋館、和館他)

 市内を代表する日本庭園。弘前市出身で日本商工会議所初代会頭の藤田謙一氏が大正10年(1921)に建てさせた別邸です。

 茂森町枡形

 ここは弘前城の出城構の長勝寺構にあたるため、見通しを防ぎ直進できないように二重の角を付けた枡形が特に設けられたと云われる。


 寄り道

   

八甲田丸

 明治41年(1908)に鉄道連絡船として就航した比羅夫丸が青函連絡船の始まり。以来80年間にわたり、青森港と函館港を結び、1億6千万人の乗客と2億5千万?の貨物を運んだ。

 ねぶたの家 ワ・ラッセ

 ねぶた祭りの歴史や魅力を紹介している文化観光交流施設。

 ねぶた

 薄暗い館内では、実際に祭で使われていた灯のともった大型ねぶた五台を展示している。

ねぶたは毎年新しいものを作り、祭りが終われば解体されてしまう。

 ねぶた面

 現在活躍しているねぶた製作者が制作したもので、15のねぶた面を展示している。