HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

史跡めぐり

遺跡めぐり

武家屋敷めぐり

弘前武家屋敷

角館武家屋敷

金ヶ崎武家屋敷

水沢武家屋敷

白石武家屋敷

上山武家屋敷

村上武家屋敷

佐倉武家屋敷

長町武家屋敷

大野武家屋敷

松江武家屋敷

萩武家屋敷

杵築武家屋敷

竹田武家屋敷

臼杵武家屋敷

出水武家屋敷

入来麓武家屋敷

知覧武家屋敷

重要伝統的建造物群保存地区

入 来 麓 の 武 家 屋 敷

 

 

 

 清色城跡(国指定史跡)は、中世薩摩地方の地方豪族として活躍し、その後島津氏の家臣となる入来院氏の城跡で、切り立った空堀を有するシラス台地(入戸火砕流)に建つ山城(写真左)です。入来麓は、その清色城と一体となって、緑あふれる麓や谷間に、当時を偲ばせる石垣と生垣が連なる武家屋敷群(同右)がよく残っている。

 薩摩藩では、かつて旧城の麓に113の外城をおき、入来麓もその外城の一つで、城を置かずに町並みを整備し、その地域の行政と軍備を管轄させていた。県内では「知覧」、「出水麓」、「入来麓」の3地域が保存地区に選定されている。

 

鹿児島城(鶴丸城)

 本城は、「鹿児島は城をもって城とせず、人をもって城となす」との言葉通り、本丸、二の丸を配し、水掘と石垣で囲んだ簡素なもので天守閣は築かれなかった。城の周囲には「麓」と呼ばれる集落に武士を配置、土着させて軍事、行政にあたらせていた。

二の丸跡に建つ西郷隆盛像

 加治屋町界隈には、西郷隆盛をはじめ、大久保利通、大山巌、東郷平八郎らの「誕生の地」の碑が建ち並んでいる。西郷隆盛の生誕地は小さな公園になっている。


 入来麓の町並み 

お仮屋馬場(おかいやんばば)

 地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に、「麓」と呼ばれる武家集落を作り、濠や広馬場が設置されている。御仮屋のあった場所に、現在入来小学校がある。

赤城神社の古石塔

 かつては麓に居住する武士団の産土神として信仰された。多くの石塔が残されている。

赤城神社前の石垣と生垣

見事な石垣と生垣が残されている。

武家住宅外観

 玉石垣と生垣などに囲まれ、整然としたたたずまいを残している。入り口から玄関まで何度も折れ曲がっており、防備に備えている。


旧増田家住宅

 旧増田家住宅は、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で、廃寺になった延命院の跡地の一部に建てられたと思われ、敷地の入り口には、明治6年の石敢当が据えられていることから、母屋はこの頃の建築と推定されます。敷地には、母屋の他に石蔵と浴室便所、洗い場が建てられている。 薩摩地方の武家住宅である別棟型民家としての特徴を有しており、縁を切って玄関を設けていることなど古い形式が残されている。

おもて

 主として接客空間として使用され、主人が普段生活する場です。街路に面した場所に置かれている。 代々眼科医であったため、ざしきで診察も行っていたそうです。

つぎのま

ざしきに付属した控の間。

なかえ

 煮炊きをしたり、農作業を行う土間と食事をする床上の空間からなる建物で、入来の武家屋敷の場合、街路から奥まった場所に置かれている。

樋の間

 おもてとなかえの間は、竹を組み合わせた桶で繋がれている。その繋いだ部屋は「桶の間」と呼ばれ、床は板張りです。それぞれの棟の雨水を竹樋で受けて流している。

なんど

寝室や物置などとして使用され、他の部屋とは異なり少し狭くなっている。

うちざ

おもてに於ける居間で、囲炉裏や戸棚などがみられる。

ど ま

調理の場として使用されている。

洗い場

 基礎が石で造られおり、入来麓ではこの様式は唯一です。清色城跡の土居からの湧水が多く、水神様のある場所から竹で水を引いていた。

浴室便所

 腰下が石で造られています。通常、風呂と便所は独立して建てられますが、徐々に、不便を解消するために共用として建てられるようになると考えられる。

石 蔵

 大正7年4月竣工の銘を1階基礎柱に確認できます。敷地入口(東)から見ると.3階建てとなっているが、母屋側(西)から見ると2階建てに見え、非常に珍しい造りになってる。1階は主に、味噌や醤油ゆなどの貯蔵場所として使用されていた。

地 蔵

 昔からイボ地蔵とし信仰され、廃仏毀釈の影響による損傷がなく、ほぼ完全な姿で残されてるが、土台は別物と考えられる。

教育委員会資料、案内板より