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村上武家屋敷

 

 村上城は標高135mの臥牛山の頂きに築かれた平山城で、戦国時代に越後の有力国人、本庄氏によって造られ、慶長3年(1598)に加賀小松から村上氏が入城し、近世村上城下町の基礎がつくられた。城は戊辰の役で焼失し、今は石垣が残るばかりだが、桜の名所として親しまれている。

城下町に残る旧武家町には重要文化財の若林家住宅を始め、まいづる公園(写真左)内の旧嵩岡家住宅、旧藤井家住宅、旧岩間家住宅の3棟など今なお約10棟の茅葺の武家屋敷が残っている。建物は「直屋・寄棟造・茅葺・一戸建て」の、典型的な村上の中級武士の佇まいが往時の姿を今に伝えている。 また、当地で見逃せないものに、冬の風物詩、軒を飾る「塩引きザケ」(同右)が有名で、冬の寒さ、夏の暑さの四季の風が味を作っているようです。

若林家 / 旧岩間家 / 旧嵩岡家 / 旧藤井家 / 旧成田家

 

 

 若林家住宅 (国指定重要文化財)

 若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。

 若林家が、内藤家に召し抱えられたのは、延宝年(1674年)で、天和2年(1682)には内藤分家の家の家老職をつとめ200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄奉行、普請奉行、町奉行、山上奉行などの要職に就いている。

 建物は、東西に棟を持つ居屋部と、南北に棟を持つ座敷部からなるL字型の曲屋で、屋根は寄棟造り、茅葺である。建築年代は明らかでないが、およそ1800年前後ではないかと推定される。

 玄関は、切妻式の茅葺きの形態をとり、玄関の形式は格調高いものである。 内部の造作は、次の間・座敷ともに「長押」が付されている。明治期に長押が付された例はいくつか知られているが、建設当初から次の間・座敷に長押が付されたのは若林家だけである。
 座敷床の間は、平書院と床脇を備え、床脇には天袋と違い棚を持つ。これも建設当初からのものである。
 座敷裏に便所があり、接客空間と居住空間にも便所を備えている。通常生活で家族が使用する便所と使いわけされていたようである。
 表門〜内玄関〜中廊下〜客対の間が私的な客に対しての接客空間で、客対の間は主人の私的な応接間、書斎などを兼ねていた。
 巾廊下については、単なる部屋と部屋をつなぐ通路の意味あいだけでなく、寄付と呼ぶ所もある。客に供をしてきた者などが待機している場所としても考えられている。
 本住宅の部材は転用古材が多く使用されていた。転用材を使用する事で倹約されて建築された事が窺える。
 柱や長押には面皮付の材料を使っているが、面皮柱などを使用するのは、茶室や数寄屋造りにみられる技法で武家住宅に茶室建築が取り入れられた事がわかる。

居 間

客対の間

控の間

客 間

土 間

庭 園


 旧岩間家住宅(市有形文化財)

 旧岩間家住宅は、現在の新潟県村上市飯野二丁目にあったものを現在地に移築復元したものです。旧所在地は、江戸時代には五軒町と呼ばれていたところで、町人町(細工町)と接していました。明治初年の城下絵図によると、この岩間家の位置に「須貝勝太郎」と記されていることから、もとはこの村上藩士須貝勝太郎の屋敷であったと推定されます。

 この住宅の構造形式は「直屋・寄棟造・茅葺・一戸建て」であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえますが、この住宅の特徴は、この建物が建設された当初の形態と安政5年に行われた大改造後の形態が全く異なるものになったことです。

 建設当初はどのような形態であったかというと、本来は2棟続きの「長屋形式」の住宅でした。そして、何か特別な事情が背景にあったのか、その2棟続きの長屋住宅の一方の材料を活用しながら、安政5年に「一戸建て形式」に改造したものといえる。

居 室

取次の間

次の間

座 敷


 旧嵩岡家住宅(市有形文化財)

 旧嵩岡家住宅は、現在の村上市新町にありましたが、昭和62年に宅地造成のために解体されることになりました。

 この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。嵩岡家については、代々100石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。

 この復元された構造や間取りなどについては、この復元住宅がそのまま村上藩における100石クラスの武士住宅と即断することはできませんが、現在の姿に復元され公開されている。

居 室

座 敷


 旧藤井家住宅(市有形文化財)

 旧藤井家住宅が建てられたのは、楯にも使用されていた梁の仕口に記されいた墨書から、江戸時代後期の嘉永3年(1850)と推定される。

 元、この住宅は内藤家家臣重野氏の屋敷で、代々250石を給され、者頭役や普請奉行などを務めた。内藤藩では中級上位の武士であった。明治維新後、重野氏は村上を離れることになるが、その後この住宅は、明治35〜36年頃に藤井氏の所有となる。この時、藤井氏は武家や住宅であったものに病院関係の大幅な増改築を行っている。その後解体調査と保存工事が行われ、平成10年に現在の姿に復元され公開されている。

主人の間

 座 敷

 居 間

台 所


 旧成田家住宅(市有形文化財)

 旧成田家住宅は現在の新潟県村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治世下においては旧武家町に属し、.村上城本丸に通じる下渡門の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところである。

 この住宅の構造形式は「直屋・寄棟造・茅葺」であり典型的な村上の武家住宅の形式である云えるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関であるの対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。内部は見学できません。

 三の丸記念館

 明治末年の建築様式を残した木造の銀行建築物です。昭和57年に「第四銀行村上支店」を曳家(ひきや)により現在地に移築したものです。

 おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)

 村上大祭は7月6日、7日に行われるが、この村上大祭で曳き回される祭屋台「おしゃぎり」 を展示している。

<村上市郷土資料館資料より>