若林家住宅 (国指定重要文化財)
若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。
若林家が、内藤家に召し抱えられたのは、延宝年(1674年)で、天和2年(1682)には内藤分家の家の家老職をつとめ200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄奉行、普請奉行、町奉行、山上奉行などの要職に就いている。
建物は、東西に棟を持つ居屋部と、南北に棟を持つ座敷部からなるL字型の曲屋で、屋根は寄棟造り、茅葺である。建築年代は明らかでないが、およそ1800年前後ではないかと推定される。
玄関は、切妻式の茅葺きの形態をとり、玄関の形式は格調高いものである。 内部の造作は、次の間・座敷ともに「長押」が付されている。明治期に長押が付された例はいくつか知られているが、建設当初から次の間・座敷に長押が付されたのは若林家だけである。 座敷床の間は、平書院と床脇を備え、床脇には天袋と違い棚を持つ。これも建設当初からのものである。 座敷裏に便所があり、接客空間と居住空間にも便所を備えている。通常生活で家族が使用する便所と使いわけされていたようである。 表門〜内玄関〜中廊下〜客対の間が私的な客に対しての接客空間で、客対の間は主人の私的な応接間、書斎などを兼ねていた。 巾廊下については、単なる部屋と部屋をつなぐ通路の意味あいだけでなく、寄付と呼ぶ所もある。客に供をしてきた者などが待機している場所としても考えられている。 本住宅の部材は転用古材が多く使用されていた。転用材を使用する事で倹約されて建築された事が窺える。 柱や長押には面皮付の材料を使っているが、面皮柱などを使用するのは、茶室や数寄屋造りにみられる技法で武家住宅に茶室建築が取り入れられた事がわかる。 |