HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

史跡めぐり

遺跡めぐり

武家屋敷めぐり

弘前武家屋敷

角館武家屋敷

金ヶ崎武家屋敷

水沢武家屋敷

白石武家屋敷

上山武家屋敷

村上武家屋敷

佐倉武家屋敷

長町武家屋敷

大野武家屋敷

松江武家屋敷

萩武家屋敷

杵築武家屋敷

竹田武家屋敷

臼杵武家屋敷

出水武家屋敷

入来麓武家屋敷

知覧武家屋敷

佐倉武家屋敷
〜旧堀田邸・佐倉城

 

 

 佐倉城は千葉県北部、印旛沼の低湿地とその南方の鹿島川、高崎川に囲まれた鹿島山の台地上に、地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたのが始まりで、慶長15年(1610)に土井勝利が入封して大修築し、石垣を使用せず天然の地形を生かして築城した。江戸時代は譜代大名の居城となり、石川氏、松平氏が続き堀田正盛が最後の城主となった。現在は佐倉城址公園(写真左)として開放されているが、天守台や水堀、土塁などが残り、往時を偲ばせている。

 佐倉城の天守閣跡から南東に約1キロの所にある江戸時代の鏑木小路には、上中級の武家屋敷が多く集まっていたことが確認されており、佐倉の武家屋敷は、正面には門を設け、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を、屋敷の裏側には菜園などを作っていたようである。現在は旧河原家、旧但馬家、旧武居家の3棟の屋敷が公開されているが、この周辺は今でも昔ながらの面影を色濃く残している。

 同じく、佐倉城跡の南東にある旧堀田邸は、幕末に筆頭老中についた佐倉藩最後の藩主・堀田正倫の旧邸(同右)で、明治23年(1890)に竣工、3万坪の敷地に木造平屋建一部二階建、5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)で構成され、主屋や門番所(非公開)、土蔵(非公開)などの建物と庭園が残されている。伝統的な和風様式で建築された現存する明治期の旧大名家の邸宅として数少ない貴重なものです。

 旧大名家の建築した純和風住宅としては、今では全国でわずかに三例、旧堀田邸の他に松戸市の戸定邸、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸)しか残されていないと言われている。 

 

 

 武家屋敷通り(旧鏑木小路)

  旧河原家住宅(千葉県指定有形文化財)

 旧河原家住宅は知行300石の藩士の住宅である。建築様式(間取り・構造・部材の風蝕など)から佐倉で最も古い武家屋敷と云われている。

佐倉藩で定められた「天保の御制」によると、三百石以上の藩士が住む大屋敷にあたる。

玄 関

 客人を迎えるところで、座敷への通り道として、式台(玄関の前に設けられた板敷きの部分)を構えた出入り口で、格式のある家に設けられた。

旧河原家住宅、旧但馬家住宅はNHKのドラマ「桜ほうさら」のロケ地として登場している。

座 敷

接客に使用されていたところです。

土 間

板張りでなく土間の台所となっている。

納 戸

生活に使われる日用品が置かれている。

湯 殿

入浴は、大きなたらいを使って行水形式で行っていた。

庭 と 井 戸

庭は、野菜や果樹などを栽培する自給自足の場でした。


 旧但馬家住宅(佐倉市指定有形文化財)

旧但馬家住宅は知行150石の藩士の住宅である。建造物のみでなく、屋敷地の形状や植栽に武家屋敷の特徴を残している。 

「天保の御制」に定められた百石以上の藩士が住む中屋敷にあたる。

旧河原家住宅、旧但馬家住宅はNHKのドラマ「桜ほうさら」のロケ地として登場している。

玄 関

客人を迎えるところで、座敷への通り道として使用されている。

式台(玄関の前に設けられた板敷きの部分)を構えた出入り口で、格式のある家に設けられた。

座 敷

接客に使用されていたところです。

居 間

食事をし、一家団欒を楽しむ場でした。


  旧武居家住宅

旧武居家住宅は知行90石程度の藩士の住宅である。

「天保の御制」に定められた百石未満の藩士が住む小屋敷にあたる。江戸時代の建築時は、屋根は茅葺きであったが、茅不足や維持費のこともあり、移築時に銅板で葺かれたようです。(写真左)

玄関 と 座敷(奥)

客人を迎えるところで、座敷への通り道として使用されている。

式台(玄関の前に設けられた板敷きの部分)を構えた出入り口で、格式のある家に設けられた。

座敷は接客に使用されていたところです

八畳の間

土 間

板張りでなく土間の台所となっている。


堀江家住宅

江戸時代後期の建物です。非公開


児玉源太郎旧宅跡

 この地には佐倉連隊長の借家があり、児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2隊長として、1880(明治13)年から1885(明治18)年までこの地に住んでいた。

 佐倉において中佐から大佐へ昇進し、陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエピソードは有名である。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を伝えている。説明文より

サムライの古路 ひよどり坂

 武家屋敷通りに隣接した江戸時代と殆ど変わらい竹林に囲まれた古路です。

 

  旧堀田邸 冠木門(国指定重要文化財・旧堀田家住宅)

 旧堀田邸は堀田正倫の邸宅で、明治23年(1890)に竣工しました。明治44年(1911)には湯殿が増築され、現在は、主屋や門番所、土蔵などの建物と庭園が残されていまが、現存する明治期の旧大名家の邸宅として数少ない貴重なものです。

 主屋は木造平屋建て一部二階建て5棟で構成され、伝統的な和風様式で建築されています。

 正門の冠木門が、現在のものに復元されたのは平成16年3月ですが、形式は「一間一戸冠木門両開き扉付き」の威厳のある美しい門です。

  玄関棟

応接の間

 主に仕事の場として、私的な接客用として使われていた。

釘隠しは「桐」のデザイン(賓客用)、壁土は「黄大津」、床柱には北山杉を用い、筍面のしつらえが施されている。

畳廊下

 およそ11mにも及ぶ格式の高い畳廊下。この先には居間棟がある。

釘隠しは「桐」のデザイン、壁土は「浅黄大津」が用いられている。

  居間棟

居 間

家族のプライベートの空間です。

釘隠しは「橘」のデザイン(家族用)、壁土は居室にふさわしい「大阪土」、床柱は木目の美しい鉄刀木(たがやさん)が用いられている。

寝の間」(非公開)の釘隠しは「楓」(寝室など)、壁土は「大阪土」が用いられている。部屋ごとに使い分けられ、工夫されている。

天袋・地袋 の引き戸の絵には跡見花蹊の絵が用いられている。

 花蹊 1840年(天保11)〜1926年(昭和1)
本名 滝野。女性。摂津国(現大阪府と兵庫県の一部)に誕生。

明治・大正期の教育者で、和漢学や円山派(始祖は応挙)の絵画にすぐれた女性。
父、跡見重敬の私塾を助け、のち京都に移って絵画・書・詩文を教えるための私塾を開いた。
1870年(明治3)に上京し、1875年(明治8)神田神保町に跡見学校(東京都文京区にある女子のための私立総合学園で、中学校、高等学校、短期大学、大学までをおく跡見学園の前身)を創立した。 堀田家と花蹊の交流をうかがわせる天袋・地袋である。 (説明文より )

  座敷棟

客座敷

 庭に張り出すように配置された棟であり、邸内で最も大きな空間となっている。 人の集まる行事は、この部屋を利用していたと思われる。 釘隠しは「桐」のデザイン、壁土は「大阪土」、菱格子欄間、ふすまは鶴が松の葉を加えている絵柄(吉祥模様の一つ)。縁側には13mにも及ぶ丸太の軒桁が軒を支えている。NHKのドラマ「坂の上の雲」やTBSドラマ「JIN-仁」はここでロケを行っている。

次の間

 客間に隣接している控えの部屋。

湯 殿

 この建物は明治44年に堀田家農事試験場を視察に訪れた東宮殿下(大正天皇)休息のために、増築された湯殿である。
湯に浸る風呂桶はなく、かけ湯によって入浴した。

 

  佐倉城址公園

 城跡の主要部分は佐倉城址公園、椎木曲輪は国立歴史民俗博物館、三の丸の東部は県立佐倉東高校グランドとなり、本丸をはじめ土塁や空堀、天守台などは今でも良好な状態で残されている。2006年「日本百名城」に千葉県で唯一選定されている。

本丸跡

 佐倉城は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸などと、家臣の屋敷割がなされた曲輪から構成されている。国立歴史民族博物館は椎木曲輪跡(侍屋敷跡)に建つ。本丸には屋形があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たしていた。本丸にはそのほかの建造物として、天守、銅櫓、角櫓などがあった。

天守台跡

 本丸南西隅の一角に、かつて三重四階の天守が建っていた。

兵士が文字を彫り込んだモッコク

 本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られている。

大手門跡

 三の丸東に設けられ、内曲輪の入り口となる豪壮な構えの櫓門であった。

一の門跡

 この場所にも櫓門(1階城門・2階櫓)が建っていた。本丸から見て初めての門で「一の御門」と呼ばれた。門内は本丸になる。

二の門跡

 本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と呼ばれていた。
門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。

銅櫓跡

 江戸城の三層楼を移築したものと伝え、屋根は宝形造りでしころ葺と特異な櫓であった。

土 塁

 石垣は使用せず、土塁を築いて守りを固めている。

空 堀

 各曲輪はすべて空堀によって仕切られている。

堀田正睦公像

 幕末に、筆頭老中として、アメリカ総領事ハリスとの条約交渉に全力を注ぎ、日本を開国へと導いた。

 タウンゼント・ハリス像

 1856年初代駐日総領事として下田に着任。58年に日米修好通商条約の調印に成功した。

子規の句碑

 正岡子規が明治27年12月、開通したばかりの総武鉄道に乗って佐倉を訪れたときに詠んだ句碑が建っている。

「常磐木や冬されまさる城の跡」

藩校 成徳書院跡

 佐倉藩の藩校として、寛政4年(1792)に設立。文化2年(1805)温故堂、天保7年(1836)成徳書院と改称する。現在の佐倉高校へと引き継がれた。

説明板、教育委員会パンフより