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重要伝統的建造物群保存地区
金ケ崎武家屋敷

 

  金ケ崎城は北上川、宿内川沿いに自然の谷を利用した台地上に、本丸、二の丸(写真右)、蔵館、東館、観音館、大庭(馬場)の六つの郭を配した「仙台藩二十一要害」のひとつです。江戸時代に入って、金ヶ崎は伊達氏の所領となり、重臣の桑折氏その後留守氏を経て、正保元年(1644)、伊達氏の一族・大町氏がこの地に入り、伊達領北辺の鎮台としての任に当たり、明治維新まで続いた。 しかし、要害(城)は北上川の浸食が激しく、殆どの郭は消失、大町氏は二の丸で治世にあたったと云われている。

  城下町は、城、武家町、商人地から成り立ち、武家町の諏訪小路地区は鉤形、枡形及び弓形の道路(同左)を組み合わせた七小路に沿って、近世期の武家屋敷の形態をよく残しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

  武家屋敷の主屋は直ご屋(すごや)、茅葺寄棟造りの大屋根が特徴的で、屋敷の周りはヒバやドウザンの生け垣が巡らされ、庭は桜・紅葉・サルスベリなどの樹木が植えられ、緑豊かな景観が広がっている。

 

旧坂本家住宅

 旧坂本家は、文政年間(1818〜1829)に伊達氏の預足軽から大町氏の家臣となる。天保年間(1830)に当屋敷を拝領し、現存の主屋を立てている。屋敷は560坪あり、主屋の他に生け垣、庭が残る。主屋は桁行8間、梁間4.75間の喰い違い4間の間取りである。

土合丁・旧大沼家侍住宅

 旧大沼家は大町氏の譜代の家臣で、正保元年(1644)大町氏が藤沢から移封となった時にお供してきた。「大沼家先祖書留」には文化14年(1817)に古家を拝領したとの記述がある。主屋は桁行7.5間、梁間4.5間の喰い違い間取りである。

片平丁・旧大沼家侍住宅

 旧大沼家は要害大庭に沿った屋敷で、主屋、馬屋、庭が残る。主屋は桁行7.5間、梁間3.5間の広間型3間取りで、18世紀末頃の創建と考えられる。馬屋は明治期に建てられたものであるが、保存地区内唯一の遺構である。平成18年、創建当初に復元。併せて厠を新築し当地方特有の建物配置である三ツ屋形式を復元した。

鈴森家住宅

 鈴森家は淨信院と称する修験(山伏)の家であった。主屋は、桁行6.5間、梁間4間の喰い違い6間取りで、侍住宅としてばかりでなく修験者の建築遺構とも見ることが出来る。明治10年代の創建と考えられる。

大松沢家住宅

 大松沢家は山林奉行を務めていた。表小路と達小路境の枡形道路沿いに位置している。屋敷は約760坪あり、四脚門(江戸時代後期)、板塀、石積み、エグネ、庭園が残る。

大松沢家住宅の主屋・庭

 庭園は、築山を中心とした大庭園。エノキ、カエデ等の巨木があり、四季折々の多様な色彩は、人々の心を和ませてくれる。
 主屋はやや洋風を感じさせる瀟洒な建物で、大正時代末から昭和時代初期に建てられたと伝えられている。

笹井家住宅

 笹井家は、小姓組などを務めていた。屋敷は約1000坪あり、石積み、生け垣、主屋、土蔵、庭が残る。主屋は桁行9間、梁間4間の整形田の字型4間取りで、明治中期以前の創建と考えられているが、古い侍住宅の形を踏襲している。

佐藤家住宅

 表小路南側で、枡形道路沿いにある。屋敷は約1000坪あり、石積み、生垣、庭園、主屋、板倉、土蔵、便所、風呂、エグネが残る。主屋は整形田の字型4間取り。明治35年の創建であるが、侍住宅として完成された姿を伝えている。主屋と小路の間には、築山山水型の美しい庭園が広がる。

伊東家侍住宅

 伊東家は六軒丁北西側、表小路との境に位置する。屋敷は約750坪あり、生垣、庭、主屋が残る。主屋は桁行7.5間、梁間4.5間の整形田の字型4間間取りである。平成19年、一部創建時に復元した。

三好家住宅

 江戸時代は黒田家であった。屋敷は石積み、生垣、棟門、主屋、庭が残る。門(江戸時代末期)からは、河原石敷に導かれて、サルスベリの前を通り、玄関にいたる。主屋は広間型3間取りで、18世紀中期頃の創建と考えられる。

大沼家住宅

 大沼家は、大町氏のお抱医師であった。屋敷は約860坪あり、石積み、生垣、庭、主屋、エグネが残る。主屋は、桁行8間、梁間4間の整形田の字型4間間取りで、江戸時代後期の建築考えられる。小路と平行な横屋であることがめずらしい。

菅原家住宅

 江戸時代は狩野家であった。屋敷は約600坪あり、石積み、生垣、庭園、主屋、エグネが残る。主屋は、桁行8間、梁間4.5間の喰い違い6間取りである。サルスベリの巨木を中心とした庭園は、近世期の武家屋敷の形態をよく残している。

添田家住宅

 添田家は、大町氏の家老を務めていた。二の丸裏門に通ずる裏小路に位置し、屋敷は約1400坪あり、門、板倉、作業小屋、主屋、庭、生垣が残る。主屋は、桁行9間、梁間5間の喰い違い4間取りで、門や板倉ととも江戸時代後期の創建と考えられる。

細目家生け垣

 細目家は、御給主(仙台藩直臣)であった。屋敷は約1000坪あり、石積み、生垣、庭園、エグネ、はなれが残る。.築地塀形ドウダンツツジの大刈り込み生垣とドウダンツツジ、サツキツツジ混植の大玉物とアイクロ松の庭園は、他に例を見ない。<金ヶ崎町観光ガイドマップより>

白糸まちなみ交流館(旧高橋家住宅)

 旧高橋家住宅は「金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」にある武家屋敷の遺構で、現在は「白糸まちなみ交流館」として保存活用されている。 

金ケ崎要害歴史館

 「金ケ崎要害」に関する歴史文化について詳しく紹介している施設。

金堀沢・土塁

 二の丸は北西を金堀沢と土塁で区切られている。

惣 掘

 大沼家住宅付近に惣掘と見られる遺構が残っている。

泰養寺

 曹洞宗の寺院。大町家の墓所である。大町家は伊達家一族で寛永21年定頼が東山藤沢から金ヶ崎に移されて、明治維新まで9代224年統治していた。禄高は3000石、百余人の家臣を持ち南部藩境の抑えとなっていた。