HOME

うさぎの京屋敷めぐり

京屋敷めぐり

伏見屋敷めぐり

全国の武家屋敷めぐり

京都幕末史跡めぐり

幕末諸藩の状況

幕末京都の世相

史跡めぐり

遺跡めぐり

武家屋敷めぐり

弘前武家屋敷

角館武家屋敷

金ヶ崎武家屋敷

水沢武家屋敷

白石武家屋敷

上山武家屋敷

村上武家屋敷

佐倉武家屋敷

長町武家屋敷

大野武家屋敷

松江武家屋敷

萩武家屋敷

杵築武家屋敷

竹田武家屋敷

臼杵武家屋敷

出水武家屋敷

入来麓武家屋敷

知覧武家屋敷

国宝 松 江 城

武 家 屋 敷

 

 松江城は、慶長16年(1611)堀尾吉晴が宍道湖に面した標高約28mの亀田山に築城した平山城で、付櫓を設けた5層6階の複合式天守(写真上左)です。堀尾氏の後、京極氏、松平氏が入城し、以後明治維新まで松平家10代の居城となった。

 城の最上階は四方を見渡せる望楼式で、南方向には市内の町並みや美しい宍道湖が一望できます。全国に現存する12天守の一つで、昭和10年(1935)に国宝に指定されたが、昭和25年(1950)の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されている。

 松江城の北にある「塩見縄手」(同上右)と呼ばれる通りは、松江藩の中級武士の黒い板塀と白壁の屋敷が建ち並んでいたところで、城の東、現在の殿町地区にはかつて上級武士の屋敷地が広がっていた。

 北堀町の通りのお堀沿いには松並木が続き、堀を小舟で巡る「堀川めぐり」や文豪小泉八雲の旧宅(国史跡)、茶室明々庵などが点在し、最も城下町らしい佇まいを残している。 松江城(大手前)から南へ、大橋川の南側の白潟地区一帯に、城の防御の目的をもって、寺院が集められた寺町を作り、現在でも20カ寺近く建ち並んでいる。

   追記 松江城の天守は、平成24年(2012年5月)に城の中の松江神社から「慶長16」(1611年)と書かれた祈祷札が見つかり、完成年が証明されたことにより、平成27年(2015年7月8日)、国宝の再指定が実現した。現存天守では63年ぶり5例目です。

 

 松江城

天守石垣

 牛蒡積みの美しい石垣の上に建つ天守閣。石垣の高さは約10m、 天守の高さは約30m(天守台上よりは22.4m)で、現存天守の中で、姫路城、松本城に次いで3番目の高さ、平面規模で2番目、古さでは5番目とされている。

天守地階の井戸

 地階は籠城用生活物資の貯蔵倉庫であり、「穴倉の間」と呼ばれ、塩などが備蓄されていた。中央にある深さ約24mの井戸は現存する天守の中では松江城のみで、常時飲料水が得られた。

現存天守最大の鯱鉾

 天守地階に展示されている旧鯱鉾。1950年代の解体修理で取り換えられるまで、天守最上層にあった。高さ2mもあり、現存する木造の鯱では日本で最大。

天守1階(地階〜1階の通し柱)

 天守は2階分を貫く96本もの「通し柱」が効果的に配置され、上階からの荷重を支える構造になっている。床面積は120坪、姫路城に次ぐ広さ。二階も同じ広さ。

寄木柱「包板」

 一本の松柱の外側に板を継ぎ合わせ、鎹(かすがい)で打ち付け、鉄輪(かなわ)で締めて太い柱にしている。天守にある総数308本の柱の内130本に施されており、割れ隠しなど体裁を整えるため、または強度を高めるためなどの考えがある。

大きな窓と鉄砲狭間

 大きな窓は物見の役を果たしている。下の正方形の穴が角度が急な狭間。天守に近づく敵に、鉄砲(三角や正方形)や矢(長方形)を放つ様々な形をした窓が62か所ある。外部からは発見しにくい構造になっている。

天守2階石落とし

 2階の四隅と東・西・北壁に造られている。外部からは発見しにくい構造になっている。

天守5階からの眺望

 城の最上階は四方を見渡せる望楼式で、南方向には市内の町並みや美しい宍道湖が一望できる。


復原太鼓櫓

 平成13年、二の丸高石垣上に復元された一重櫓。太鼓を打って時刻を知らせた。

復原中櫓

平成13年、二の丸高石垣上に復元された一重櫓。御具足蔵。

復原南櫓

 平成13年、二の丸高石垣上に復元された南東方向を監視する二重櫓。

馬溜と井戸

 ここは、馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。この入口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。

北惣門橋

 この橋は、江戸時代には内掘りと東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路であったが、明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変わり、長らく「眼鏡橋」と呼ばれていた。そこで、史跡にふさわしい江戸時代の木橋とするため平成6年に復元完成したものです。

内堀と二の丸下の段の石垣

 400年前に造られた内堀が城を囲い込むようにめぐらさている。この堀は宍道湖と繋がっており、水城としての構想が窺える。

松江神社

 二の丸にある「御祭神」、 松平直政公(松平家初代藩主)、堀尾吉晴公(松江開府の祖)、松平治郷(不昧)公(松平家第7代藩主)、徳川家康公を祀っている神社。

堀尾吉晴公像

 城の正面玄関にあたる大手前広場(松江市殿町)に設置されている初代松江藩主・堀尾吉晴公の銅像 。

 小田原合戦後、豊臣政権五大老に次ぐ三中老の要職に就任、関ケ原の合戦には東軍に属し、戦後、出雲、隠岐24万石を与えられ松江城を完成させた。

堀川めぐり

 松江城を取り囲む堀川を16もの橋を通り抜けながら遊覧船がゆっくりめぐっている。堀川の浄化ポンプ場によって、水位を監視して一定の水位に保つようコントローしている。


武家屋敷・塩見家屋敷

 この一帯は松江藩の中級武士の屋敷が並んでいたところで、この武家屋敷は、江戸時代初期から松江藩の600石程度の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替わり住んだところです。

 城下町では、一筋の道を「縄手」と云うが、この屋敷前の通りを「塩見縄手」と呼ぶのはこの屋敷に一時住んでいた塩見小兵衛が、異例の昇進をしたことによる。この塩見縄手地区は昭和48年に松江市伝統美観保存地区に指定されている。

式台玄関

 来客用の玄関で、ここから座敷に続いている。

座 敷

10畳の座敷は邸内で最も立派な部屋で、客は式台玄関から上る。

長屋門(中間部屋)

 中間の住居として使われていた。道路側には物見窓があり、外部に対する防備の一つになっている。

井 戸

 井戸、湯殿などに当時の慎ましい生活が偲ばれる。

 自然を生かし、飾りを省いた素朴な造りになっている。


小泉八雲旧居

 新聞記者として1890年(明治23)に来日。島根尋常中学校などの英語教師として約1年3か月松江で過ごした。武家の娘、小泉セツと出会い、塩見縄手の侍屋敷根岸宅で生活を共にした。

居 間

  八雲の居間、書斎、セツ夫人の部屋などで過ごしていた。

 八雲は庭を眺めては執筆活動にいそしんだと云われている。根岸干夫の先代、根岸小石の手によって明治元年(1868)に造られたものです。 


殿 町

 三の丸の跡で、かつて上級武士が住み、藩の施設があったところ、現在は県庁や松江歴史館、県物産観光館がある。

松江歴史館

 松江の歴史・文化の紹介や各種講座を開催している。ここはかつて重臣の屋敷地になっていた。

明々庵

 松江藩七代藩主・松平治郷は、茶人大名として知られる。不昧は号で、不味公の好みによって建てられた茶室。

町屋 清酒蔵元の家屋

 江戸時代には、この大橋川周辺の東茶町は、問屋、蔵、商店などが軒を連ねる中心街で、城下町の風情が漂っている。

寺 町

 城郭の防御を固める意図で、寺院が集められ、寺町を形成し、現在でも20ケ寺近くある。