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竹田の殿町武家屋敷

 

 

 岡城(国指定史跡)は、白滝川と稲葉川に挟まれた狭い溶岩台地、天神山上に築かれた山城で、中世には大友氏の家臣志賀氏が入り、城を拡張した。天正14年(1586)の豊薩戦争では島津の大軍が岡城に侵入したが、志賀氏は城を守り、島津軍を撃退した。主家の大友氏の改易に伴い、志賀氏は岡城を去ることになり、その後文禄3年(1594年)に播磨三木から中川氏が7万石で入城し、現在残る高石垣を多用した近世城郭となった。江戸時代には中川氏が代々岡藩主として明治に至った。

 現在は本丸、西の丸などの石垣のみが残るが、なかでも三の丸から二の丸の北側にかけては城内で最も高い石垣(写真左)が見られる総石垣の山城です。滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、この岡城跡のイメージによって、あの名曲「荒城の月」を作曲している。

 岡城から1km以上も離れた竹田城下町東側の殿町武家屋敷通りには(同右)、禄高約100石〜200石の長尾家、北條家などの土塀や門構えの武家屋敷が10軒ほど残っており、今も藩政時代の面影を留めています。

岡城跡

大手門へ続く石階段

石段の壁側にはその頂部に「かまぼこ石」が置かれている。

大手門跡

 城内には、大手門、太鼓櫓門などがあったが、それぞれ門番として役職の侍番が置かれ、出入りの監視が置かれた。

太鼓櫓跡

 本丸、二の丸、三の丸への出入り口で、城内では最も大きな石材を使用している。

三の丸跡

藩主の執務が中心的に行われた曲輪であったと考えられている。 

二の丸跡

遊興的な曲輪であった。 

空井戸

二の丸にある73mの深さの空井戸。 

滝廉太郎銅像

 二の丸跡に建つ、朝倉文夫作の銅像。この岡城跡のイメージによって、名曲「荒城の月」を作曲している。

くじゅう連山

 岡城跡に立てば、左から久住山、大船山、黒岳のくじゅうの山並みが見える。

 九州の名山・くじゅう連山を源とし、大野川、稲葉川が市の中央部を流れ、稲葉川は本川の大野川に合流、別府湾に注いでいる。

御三階櫓台の石垣

本丸には天守の代用として御三階櫓があり、本丸の北西隅にあった。

西の丸御殿跡

寛文3年(1663)に、西の丸御殿が造営され、以後西の丸が藩政の中心となった。 

家老屋敷跡

 西の丸に、家老屋敷や城代屋敷が構えられていた。


殿町武家屋敷通り

 古田家中間長屋門

 この長屋門の半分は、弘化4年(1847)に建てられた中間長屋が基を成しており、江戸時代の間は中間長屋として利用されていた。

長尾家

 奉行職を務め、当時は見事な庭園があったと云われている。

北條家

 岡藩8代藩主久貞候の側室北條織江の生家で、孫の久持は15歳で第9代藩主となった。

佐藤家

竹田創生館

 もともとは中級武士の武家屋敷。竹下登ふるさと創生事業資金を活用して復元したもの。

 毎年2月中旬〜3月にかけてはお雛様の展示、11月中旬には「たけた竹灯籠 竹楽(ちくらく)」の会場としても利用されている。


キリシタン洞窟礼拝所

 戦国時代に、キリシタン大名の大友宗麟が治めた影響もあり、江戸幕府の禁教後も、密かに信者たちは「洞窟」で信仰を続けていたと云われている。