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長町武家屋敷

 

 

 金沢城は、犀川と浅野川に挟まれた台地の先端に建てられた加賀一向一揆の本拠、金沢御堂を柴田勝家が攻略、その甥、佐久間盛政がその跡地を改修して築いた平山城。江戸時代を通じて加賀藩主前田氏百万石の居城となった。石川門、菱櫓、多門櫓、三の丸土塀、三十間長屋は江戸時代から残り、その建物の大半が鉛瓦の屋根と海鼠壁で仕上げられている。

 金沢城下の長町一帯(写真左)は、藩政時代、加賀藩士の邸宅が建ち並んでいたところで、火災が少なかったこともあり、粛然とした武家屋敷が保存状況よく残っており、この辺りでは、平士と呼ばれる中級の藩士が多く、20余家を数えることがでる。

 武士の邸宅は、土塀で敷地内を囲うのが習わしで、屋敷の周囲は土塀をめぐらし、高禄になると長屋門、物見などが設けられ、邸内に小者部屋、厩(うまや)のあるのが通例となっていた。長町の土塀に沿って流れるのは大野庄用水(同右)、この用水から水を引き曲水を配した庭を持つ屋敷が多く、庭園も見応えがある。

 足軽の住宅は、平足軽で50坪、小頭で70坪の宅地に、建坪20〜25坪余り、長屋形式でなく屋敷の周りには生垣を回した庭付き一戸建ての屋敷が与えられていた。

 加賀藩での知行高と拝領する宅地の面積の関係は金沢市の表示板よると、100石から200石までは200坪、300石から400石までは300坪、500石から700石までは400坪、800石から1,000石までは500坪、1,100石から1,400石までは550坪、1,500石から1,900石までは600坪という広さになっている。

野村家 / 高田家 / 新家家 / 大屋家 / 清水家 / 小田野高西家 /前田土佐守家資料館

 

 

  長町武家屋敷

野村家

 天正11年(1583)藩祖前田利家が金沢城に入城して、加賀百万石の基礎が築かれたが、直臣として従った野村伝兵衛信貞家は、禄高1000石から1200石と累進して、代々を御馬廻組々頭、各奉行職を歴任し、この地に千有坪(三千平方米余)の屋敷を拝領し、家督は11代にわたって、明治4年の廃藩に至った由緒ぶかい家柄である。

 武家制度の解体により野村家もいくたびか住人を変えたが、土塀、古木、曲水の一部を残しその後、加賀大聖寺藩の傑商久保彦兵衛が天保14年(1843)建立の、藩主を招いた豪邸の上段の間、謁見の間を移築して現在に至っている。

上段の間

 金に糸目を付けない総檜づくりの格天井の上段の間は、紫檀、黒檀材を使った緻密な細工造りで、畳下が桐板張りである。

謁見の間

 上段、謁見の間は加賀の豪商久保彦兵衛が大聖寺藩主を招いた部屋を移築したもの。

仏 間

右の床の間に飾ってあるのは、玄奘三蔵取経の図です。

庭 園

 樹齢400年以上といわれる山桃の木や曲水、名石、奇岩を配した小堀遠州好みの池泉回遊式の庭園。

野村家の案内板・パンフレットより


 高田家

 加賀藩五百五十石平士の高田家屋敷跡には、かつてあった長屋門が復元されている。高田家は、(家禄が八十石から二千四百石)平士階級に属し、文字通り中級の家格でした。長町界隈には、このような平士が多く住んでいた。

 武家屋敷は、家格に応じて土塀や門構えが異なり、高田家のように「長屋」の付いた門を「長屋門」と呼んでいた。

仲間部屋

 住み込みの仲間が生活し、仕事の合間に草履つくりなどの内職をして小遣いを稼いでいたようです。

 家禄が400石以上の長屋門には、「厩」を建てることが許され、主人が外出する時に乗る馬を飼っていた。

庭 園

 藩政時代には、443坪の敷地に大きな武家屋敷が建てられていた。現在残されているのは約270坪で、敷地には大野庄用水の水を取り入れた池泉回遊式庭園が造られている。


 新家邸長屋門(市指定保存建造物)

 もと、加賀藩士の桑嶋氏住宅長屋門。亀甲積みとした基礎、疎石、礎盤などの役石をすべて戸室石とし、門を構成する柱は根具金具打ちとするなど、加賀藩中級武士住宅の風格を見せている。

 また出窓の形をとる武者窓を又首、出桁の木口を銅板巻とするなど、木部の洗練された意匠とともに、しっかりした工匠の意気がうかがえる。


大屋家(市指定保存建造物)

 藩政時代の直臣平士級の武家屋敷の遺構で、門を構え、敷地周囲に土塀を巡らし、広い庭を持つ。建物は建具を含めて、内部も当時の状態をよくとどめている。

 正面に高く広い妻面を見せるアズマダチの屋根は、明治期に瓦に葺き替えられたものだが、屋根裏には板葺石置屋根当時の低い小屋組が残る。武家屋敷を構成した主な要素一式を全て残している貴重な遺構である。  金沢市案内板より


清水家(金沢市足軽資料館)

 足軽資料館は、早道飛脚足軽の組屋敷地であった旧早道町(現幸町周辺)に残されていた二軒の足軽屋敷を移築したものです。

 加賀藩の足軽たちは、小さいながらも、接客を重視した武家屋敷の流れを汲む、れっきとした庭付き一戸建ての屋敷に住んでいた。このような足軽屋敷は、役目に応じた組ごとにまとまり、現在でいう団地を形成するように建っていた。 清水家は、藩政時代から平成2年まで、住居として使われていた。

座 敷

 接客の間で、足軽屋敷も普通の武家屋敷と同様、接客を第一に考えて造られていた。

 流 し

 生活空間として、流し、茶の間、納戸、鍵の間があり、流しにはかまどや調理設備が備えられている。

茶の間

 食事をし、一家団欒を楽しむ場でした。食事は、箱膳を並べてとった。

鍵の間

 納戸一室での収納や寝室に無理が生じてくると、この鍵の間が付加された。ここでは日中、大人たちは菅笠張りや糸紡ぎ、人形作りなどの内職をしたり、作法書などの書物を読んでいた。


  金沢城

石川門(国指定重要文化財)

 金沢城搦手の正門。宝暦の大火(1759)後、天明8年(1788)に再建された門で、石垣上に、腰に海鼠壁を付けた白壁の塀が美しい。金沢城の城門の中で、特に重要であった「石川門」「河北門」「橋爪門」を「金沢城三御門」と呼んでいる。

石川門石垣

 この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」の技法となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。文化年間に書かれた文書には、「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろなこだわりや思いがあったことがうかがえます。

 創建 慶長(1596?1614)頃 改修 寛永8年(1631)頃、明和2年(1765)、文化2?4年(1805?1807) 現状 主に明和2年頃の姿をとどめる。(案内板より)

河北門

 「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建された。

 

復元中の橋爪門

 「金沢城三御門」のうちで、藩主の住居に通じる最後の門として最も格式の高い門とされている。

 平成13年「一の門」を整備済みで、今回の「二の門」と「枡形土塀」の復元により枡形門が完成する予定。平成27年春の完成を目指して工事中のため、足場で覆われていた。

二の丸

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓

 菱櫓は橋爪門続櫓とともに周辺を監視するための物見櫓で、石垣からの高さは17m。五十間長屋は橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ2階建ての長屋。武器庫と城壁を兼ねており、石落としや鉄砲狭間を備えている。

本丸

三十間長屋 (国指定重要文化財)

 宝暦の大火で焼失後、安政5年(1858)に再建。幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多門櫓で、海鼠壁と鉛瓦で仕上げられている。

大手門(尾坂門)石垣跡

 巨大な割石を使った石垣。巨石は「鏡石」と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられた。金沢城の石垣の中で最大の石もこのなかに組み込まれている。


 兼六園(特別名勝)

 江戸時代の代表的な林泉回遊式大名庭園の一つ。延宝4年(1676)、5代藩主綱紀によって作庭されたのが始まり。六つのすぐれた眺め「六勝」を兼ね備えているところから兼六園と名付けられた。

霞ケ池

 天保8年(1837)に掘り拡げられた池で、広さは5800?。 大きな霞が池の周りをめぐるとその六勝が楽しめるように造られている。

雪吊り

 北陸特有の重い雪から樹木の枝折れを防ぐ造園管理技術。冬を代表する風物詩。

根上松

 13代藩主前田斉泰が、稚松を高い盛り土にお手植えし徐々に土を除いて根をあらわしたものと伝えられている。


 尾山神社

 前田利家公の沒後、その霊を神として奉祀しようとしたが、当時はばかる所があって、越中国射水郡守山海老坂鳥帽子峰に鎮座の八幡大神を遷座すると称して、その実公の霊を加賀国卯辰山麓に鎮座の卯辰八幡社に奉祀。明治になって、当社を旧加賀藩主金谷邸址に遷そうとして明治5年10月請願し、翌6年3月許可せられると同時に尾山神社と改称、同年11月、現社地に御社殿を創建した。 (社伝より)

神 門(重要文化財)

 1875年(明治8年)に建築された和漢洋の三様式を混用した異色の門。第一層は戸室石を用い、第三層は四面五色のギヤマン張りで、美しいステンドガラスがはめ込まれている。第三層目に設置された避雷針は日本最古のもの。

拝 殿

拝殿は入母屋造り。旧金谷御殿の格天井と欄間が移築されている。

前田利家公像

境内にある利家公 赤母衣衆隊長の騎乗像。

お松の方之像

前田利家公の正室まつの方の石像。